緑商会社長、草野次郎さんについて、 | 「模型探偵団」明石小五郎の昭和のプラモデル

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緑商会社長 草野次郎さんについて、

の続き、
 
昭和16年4月 「八州商会」を設立、
 
出資者は、次郎、反乱組のYとM,そして、同業者の「K」、の4名であった、
出資額は各自2千円の総額8千円である、
 
開店当初は軌道に乗らず少し難航したが、数カ月後には好調に向かい、その後は加速度的に発展していった、
材料の入手も円滑に進み、模型飛行機には欠かせない「竹ひご」も奈良市の業者を介して台湾製の高級品を安く仕入れることができた、
 
昭和16年12月8日 
真珠湾奇襲の開戦日も店は賑わっており、来店客は皆興奮気味であった、
 
(戦時中における八州商会については詳しい資料が見つからないので詳細は不明、判明している部分だけ紹介する)
 
戦時体制下、戦況不利の中においても模型飛行機熱は冷めず、むしろ過熱していく一方であり、八州商会も繁盛していった、
ただ、それも昭和18年あたりをピークに段々と下降していく、
反乱を起こした「帝国模型航空機工業㈱」も資材等の国の統制下になり事実上消滅した、
それは模型飛行機に必要な鋼鉄線、ゴム、木材などの資材の統制が強化され、材料の最高販売価格が設定され、新たに「全国模型航空機製造業組合連合会」なるものが組織されたからであった、
 
次郎の八州商会も何らかの理由でこの頃に解散したようで、詳細は不明、
そして、次郎はある会社に入社する、(メーカー名などは不明)
ただ、その会社も段々と戦況不利が進んでいく中で、職人、従業員が軍に徴用され始めた、
それでも最低限の従業員を手配し営業を続けていったという、
ただ、工場のほうは工員が徴用されほとんどいなくなったので事実上閉鎖するしかなかった、
その会社で次郎は1年2ヶ月ほど世話になったという、
 
次郎の母は埼玉の与野に疎開していたが、昭和16年頃から体調を崩し昭和19年頃に亡くなった模様、
 
昭和20年8月15日 終戦、
次郎は、天皇陛下の放送は自宅で妻、娘の3人で聞いた、3人はしばらく放心したように座り込んだという、
貯蓄があったので、しばらくはノンビリと生活をしていた、
翌21年、北海道奥地の見学視察を思い立った、
そこは、天然豊かな所で食糧事情に喘ぐ都市に比べれば天国のような所であった、
そこで一番魅力に感じたのはアサリ帆立貝の缶詰工場であった、
次郎は自分も缶詰会社を、と思ったみたいで、
なぜなら、東京は食糧事情に喘いでいたからである、
それと、インフレの急速な進行にあったからと語っている、
 
しかし、そのチャンスを逃すこととなり次郎は上京することとなる、
疎開時に購入していた埼玉与野に1万5千円で購入していた家屋が3年間に8万円となり売却できたので楽に上京することができた、
ちょうど知人が荒川区に新築した家を譲り受け、焦土と化した東京に運を天に任せて上京したのであった、
昭和22年2月、 次郎42歳の時であった、
                    <続く>緑商会社長 草野次郎さんについて、