緑商会社長 草野次郎さんについて、 | 「模型探偵団」明石小五郎の昭和のプラモデル

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昭和のプラモデルが好きなタダのジジイです、上から目線で書いてます、日本初のプラモデルメーカー、㈱日本プラスチックなど、真実のプラモデルの歴史を書いてます。

緑商会社長 草野次郎さんについて、

の続き、
 
大正12年9月1日、
正午少し前、突然に地鳴りと共に激震が襲ってきた、
その時、次郎は家の中にいたが、家は傾き住めないほどに傷んだ、
すぐに火災が発生し炎が段々と近づいてきたので、近所の若者達と一緒に荷車を1台手に入れ、
家財を積み込み宮城前広場に避難した、
小屋を建てようと焼けトタンを探し回り、東京駅の操作場まで来たら門内に人が入っていくのを見かけた、
何事かと駅員に聞くと、非常時なので客車の中に入ってもいいようなことを言うので客車の中に入ってみた、これはいいと、次郎一家はその客車の中で暮らすこととなる、
 
その操車場前には水道局があり、水道からは水が吹き出していたので水に困ることはなかった、
客車内では2週間ほど暮らすこととなる、
次は日比谷公園内に建てられたバラック小屋に移り、そこで1年半ほど暮らすこととなった、
広い公園内での生活はバラック小屋とはいえ、毎日運動が出来る楽しさと最高の環境で楽園となった、次郎18歳の頃、
 
その後、台東区松葉町に移転、
父は再びプロペラ製造を再開する、もちろん、次郎も家業を手伝うこととなった、
 
(それから昭和10年頃までの資料が見当たらないので詳細は不明、判明しているところだけ紹 
 介)
 
昭和4年、父死去により次郎はその家業を引き継ぐ、
 
昭和8年春、 模型飛行機の同業者14名で「八日会」を結成、
       その目的は情報交換など親睦会的な集まり、
       
昭和10年11月 長女誕生  (おそらく、次郎は昭和9年頃に結婚したものと思われる)
 
昭和11年2月26日 「2・26事変」発生
 
この頃には日本製のプロペラが好調で特にアメリカ向けの輸出が増大した、
ただ、治郎は輸出向けではなく、国内向けの安物を生産した、
しかし、その輸出向けも日本の大陸侵攻とともに昭和13年以降は急速に下降した、
 
                      <続く>緑商会社長 草野次郎さんについて、