日本におけるプラモデルの始まり、 | 「模型探偵団」明石小五郎の昭和のプラモデル

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昭和のプラモデルが好きなタダのジジイです、上から目線で書いてます、日本初のプラモデルメーカー、㈱日本プラスチックなど、真実のプラモデルの歴史を書いてます。

すでに日本におけるプラモデルの始まりについては簡単に紹介していたが、その後少しばかり追加したのでご覧いただきたい、簡潔にまとめてみた。

 

プラモデルの始まり

 日本におけるプラスチックの射出成型、金型製造は1945年代後期にはその技術は確立され、全国には多くのプラスチック成型、金型製造業者が存在し、プラスチック製の玩具、生活用品なども国内では第に普及していった。ただ、模型についてはまだ木製模型が全盛の時代であり模型は木製でという考えが根強く、それがプラスチックに切り替わるのは1955年代に入ってからである。

 

日本におけるプラモデルの始まりは西は大阪から、東は東京から始まった、

昭和28年頃には、プラスチック製の玩具製造を始めていた大阪の布施市(現東大阪市)の「㈱日本プラスチック」は米国レベル社のプラモデルの下請け製造を開始していたが、日本国内向けに1956年10月頃にプラスチックモデルキットの「ゼロ戦」を発売、その翌年の2月頃にはゴム動力の「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売した、

 

それから遅れること2年、東京からは関孝太郎が「和工樹脂㈱」を設立し、昭和33年10月頃に「ダットサン1000セダン」を発売、それらが日本初のプラモデルとなった、

 

当時玩具の大手メーカーであったマルサン商店は1958年12月に「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売しプラモデル界に参入、これを契機に各メーカーがプラモデル界に続々と参入することとなった。

 

それでは、プラモデルが始まるまでを時系列に簡単に追ってみよう、

 

◯ 戦後すぐの昭和20年11月、新潟燕三条地区に存在していた「星野製作所」がプラスチッ

  ク製の「お椀」を発売、その後菓子器、飯びつ、コップ、盆などの食器類を発売した、

  これが国内初のプラ製品と思われる。

 

◯ 玩具業界では昭和25年、「東邦化工」からプラスチック製の「ままごとセット」が発売さ  

  れ玩具界での初のプラ製品となる、

  この頃には金型製造、射出成型などの技術は確立しつつあった、

 

◯ 昭和27年、東大阪では「宮本順三」がプラスチック製の「グリコ」のおまけ玩具の製造を

  開始する、また「大阪金型㈱」を設立し、金型製造、射出成型を開始する、

  この頃には金型、射出成型などの技術は確立されており、射出成型金型業者も増え始めた、

 

◯ 昭和28年頃、「宮本順三」のグリコのおまけ工場の斜め向かいにあった「大阪化学研究所

  」で濱田貞雄、石村栄三、濱田亨らはプラスチック製の玩具類の製造を始める、

  と同時にレベル社のプラモデルの下請け製造も開始する、

  昭和31年2月、日本プラスチック㈱と正式に法人組織化し登記、

  昭和31年10月頃、プラスチックモデルキット「ゼロ戦」を発売、

  昭和32年2月頃、ゴム動力のプラスチックモデル「原子力潜水艦ノーチラス号」を発売、

 

  昭和31年頃、兄の濱田亨は東京に進出し「ハマライト化学」を設立しプラ製の玩具、金型

  製造を開始する、

 

◯ 昭和32年頃、東京練馬に住んでいた街の発明家「関孝太郎」は喫茶店に入った時に舶来の

  車のプラモデルの完成品を見た、それを見た関孝太郎は車のプラモデルの開発を思いつき、

  知り合いの日製樹脂工業の「青木固」に開発を依頼した、

  車の車種は「ダットサン1000セダン」、

  関孝太郎は日産自動車にその企画を持ち込んだところ、日産は200万円の資金を提供し自

  社のデザイナーまで派遣して全面的に協力した、

  日精樹脂の青木固は金型製造から射出成型までの製品化に成功、

  関孝太郎は「和工樹脂㈱」を設立し昭和33年10月頃に「ダットサン1000セダン」を

  発売、同時に日産自動車の販促品にもなった、

  そのダットサン1000の箱には1959年(昭和34年)という表示になっている、

  

  それは、ダットサン1000はアメリカ向けの輸出があり、アメリカの会計年度が10月か

  ら3月までと日本とは違っている、(日本は4月から9月まで)

  それで1964年になっているものと思われる、

 

◯ マルサン商店は昭和33年12月に「ノーチラス号」を日本初と称して発売を予定していた

  ためにその和工樹脂の「ダットサン1000」が市場に流通するのを防止する必要があった

  マルサンは和工樹脂にダットサン1000を自社に納入するように提案、和工樹脂は営業活

  動などが省略できるために応諾、

  マルサン商店は和工樹脂の箱のロゴマークの上にマルサンのロゴマークのシールを貼って

  あたかも自社製品のごとく「ノーチラス号」と同時発売した、

  ただ、同時に和工樹脂も自社ブランドで「ダットサン1000」を発売している、

  つまり、市場には和工樹脂のブランドとマルサン商店ブランドの2種類の「ダットサン10

  000」が流通していた、

  その数日後にはマルサンは「哨戒水雷艇」、「ストラトジェット」を発売したが、それも自 

  社で製造した金型ではない、

 

  和工樹脂はその後、マルサンには「ダットサンスポーツ」、「日野ルノー」など数種類のプ

  ラモデルも納入しているが、それも和工樹脂のロゴマーク付きの自社製品として発売してい

  る、つまり、それらも和工樹脂とマルサン商店の両方のブランド名で流通していた、

 

◯ 昭和34年2月、大阪に営業所を開設していた(昭和33年5月)NBK(日本文化教材)

  は日本プラスチックの「原子力潜水艦ノーチラス号」を再販、

  キット、説明図はそのまま日本プラスチック製、箱だけ変えて発売、

  説明図はその後NBKのロゴマークに変更、

 

◯ 昭和34年3月10日、日本模型工業(ニチモ)はゴム動力の伊号潜水艦を発売、

 

◯ 昭和34年8月、日本プラスチックは科学玩具「フライングヘリコプター」を発売、

  それを最後に、日本プラスチックは昭和34年後期にその活動を終える、

  日本プラスチックの濱田貞雄は東京へ進出し、昭和35年5月に「OS工業」を設立し現在

  に至る、

  (日本プラスチックの登記簿上の社長だった石村栄三の息子さんはナムコの元社長の石村繁

  一さん)

 

◯ 和工樹脂は昭和35年9月にその活動を終える、

  終えた理由は、もともと関孝太郎は何か新しいことを始めたいという考えで、それを達成し

  た後は会社を継続させていくつもりはなかった、和工樹脂を終わらせた関孝太郎は次の新し

  い目標に向かっていた、その後の消息はつかめていない、

 

◯ 日本プラスチックの濱田さんの兄の亨さんが設立した「ハマライト化学」はその後も影のメ

  ーカーとして玩具業界、プラモデル業界に深く関わった、

  決して表に出ることはなく、あくまでも下請けメーカーに徹した、

  ほとんどのメーカーに関わったものと思われる、

  例えば、タミヤ模型会長の自叙伝に出てくる「ベビートラック、ベビーレーサー」はタミヤ

  模型の救世主として「ハマライト化学」の名をあげている。

 

以上がプラモデルの始まりであり、なぜ日本プラスチックがすぐに昭和34年に消滅したのかは大体のことはわかっているが、まだ具体的なことは確定できないでいる、

それは不都合な事実は皆語りたがらない、

ただ、当時のことを知っている方はまだいらっしゃるので、なんとか頑張って突き止めたい。