㈱日本プラスチックの謎に迫る、 | 「模型探偵団」明石小五郎の昭和のプラモデル

「模型探偵団」明石小五郎の昭和のプラモデル

昭和のプラモデルが好きなタダのジジイです、上から目線で書いてます、日本初のプラモデルメーカー、㈱日本プラスチックなど、真実のプラモデルの歴史を書いてます。

        (東奥日報 令和2年2月20日 サブカル最前線より)

               20日の東奥日報新聞にて、

 

㈱日本プラスチックというメーカーに興味を持ち追跡調査を始めてからすでに5年が経過してしまった、

その全容はほぼ解明できたが、まだ核心部分については解明できていない箇所がある、

いや、正確に言うとその核心部分も掴めてはいるが、そのことを証明できる証拠を掴んでいないということ、そう、皆過去の歴史とはいえ知られたくないこと、秘密にしておきたい、ということについては固く口を閉ざしてしまう、それは皆同じこと、僕でも過去のいくら時効になったこととはいえ絶対に知られたくないことはある、そう、墓場まで持っていくしかない、

 

「真実は正義なり」と言う人もいるが?、はたして過去の歴史とはいえ真実を暴くことが全て正しいことなのか、それとも暴かないほうがいいのか、迷うことがある、

過去の歴史のことを今更追求して何の意味があるの?それで何か世の中に影響でもあるの?

と問われると、その返答には困ってしまう、そう、そのようなことを言い出したら歴史なんてどうでもいいことになってしまう、

ハッキリ言って、真実を追求しても特に誰も喜ぶわけでもない、世の中に直接役に立つわけでもない、追求している者の自己満足の世界でしかないだろう、

 

模型の歴史の世界で、特にプラモデルの歴史においてその真実を暴かれると非常に困る世界があることに気がついた、それが模型業界であった、その中には出版業界、プロの模型ライター、

それに、どういうことか最近は金型メーカーまでが加わった、もう業界が一丸となってマルサンを守ろうとしている、今更言うまでもなく、僕は業界にとっては要注意人物の札付きの人間となってしまった、ハッキリ言って業界としてマルサン説をそのまま受け継いでいくことは間違いないだろう、業界としてはそのマルサン説が捏造されたものであるとわかっていても、それを認めるわけにはいかずこれからもマルサンを守っていくことになるだろう、

そうなると、益々僕は過激な言動になってしまう(笑)、そのような僕の過激な言動を「気の毒な人間」だと批判される方々もいる、それどころか、僕は模型業界のテロリストとまで言われてマークされている、模型業界をかき回し混乱させるとんでもない奴だと、

 

最近、某金型メーカーの方に言われてしまった、「貴方はどうしてプラモデルの歴史にこだわるの?、貴方の目的は一体なんですか?プラモデルの歴史よりも貴方が一体どんな人なのか、何の目的でそのようなことをやるのか、それに興味がある」と、

このことでもわかるように、ほとんどの業界スジには僕の悪評が出回っているということ(笑)、

模型業界、出版業界、模型ライター、などばかりでなく、金型メーカーにまで、

ある意味、そういうことでは業界筋は団結している、そのネットワークは見上げたものだ、

そこまでして、それこそ業界筋は一体何を守ろうとしているのだろうか、

 

そうそう、言い忘れていた、業界が今も守り続けているものに「プラモデル」という商標権がある、

今となってはその「プラモデル」という名称は一般名称化、普通名称化してしまった、

今もなお「プラモデル」という商標を守り続けていく必要性、意味はまったくない、

日本プラモデル工業協同組合はそれでも「プラモデル」という名称を守り続け開放しようなどという気持ちはサラサラない、おそらく、これからも日本プラモデル工業協同組合は「プラモデル」という名称を永遠?に商標権として登録し続けるだろう、

なぜなら、「プラモデル」という商標権を手放したら、「プラモデルの国産初のメーカーはマルサン商店である」ということが言えなくなるからである(笑)、

そう、プラモデルの名称はマルサンが初めて使い商標登録したものだから、プラモデルの日本初のメーカーはノーチラス号を発売したマルサン商店である、と、

まったく、馬鹿げた話である、

 

まあ、少しづつでも本当のプラモデルの歴史のことが皆に知れ渡っていけばいい、

もちろん、業界の方々も僕のブログが気になるらしく常時チェックされている、

なので、僕もそのことを前提にこのブログを書いている、

表面的には過激に、そしてある時には静かに潜航して活動していくしかないだろう、

大げさに言うとある意味、業界との戦いのようになってしまった。

 

ところで、今まで随分と長い間、日本プラスチックの追跡調査を書いてきた、

ブログの宿命?でその記事が日毎にしか書けない、だから、今回今までの追跡調査を古い順からまとめることにした、まだ途中なので時間のある方はあらためて読んでいただきたい、

 

これは、日本プラスチック㈱を追跡調査していったことを日付順に記録したものである、

 

  電話帳の中での㈱日本プラスチックは、      (2014年2月18日)

 

プラスチックモデルの歴史の中で謎のままとなっているのが、「日本プラスチック」という会社の存在だろう、未だに謎の会社である、僕もその会社の実態はまったくわからない、

その日本プラスチックという会社が大阪の布施にあったというが、東京にもあったということなので、手持ちの東京の当時の電話帳で調べてみた、

 

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左から昭和31年、33年、34年の東京の電話帳である、いや、当時は電話番号簿と言っていた、

 

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この昭和31年の電話番号簿には「日本プラスチック」なる会社の名は載っていない、

 

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ところが、この33年のものには「日本プラスチック」なるものが載っている、

 

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そう、ここに「日本プラスチック株式」とある、はたしてそれがその謎の日本プラスチックであるかどうかはわからない、

ただ、昭和31年には載ってなく、33年には載っているので会社が昭和32年頃できたことは推察できるが、(結局はこの会社は関係ない)

 

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しかし、その日本プラスチック株式もこの34年の電話番号簿にはどこを探しても載っていない、ということは、1年くらいで消滅したということだろうか、ま、よくはわからない、

年代的にはその謎の日本プラスチックとは合ってはいるが、

ただ、大阪布施(東大阪)の電話番号簿は持ってないので、調べてはいないが、

ハッキリ言って、当時のことを調べることが今となってはかなり無理がある話だろう、

 

だから定説なるものがいい加減な話となってしまう、いや、捏造されて脚色されてしまう、

これらの当時の電話番号簿を見ると、それが、よ~くわかってくる、

これらの電話番号簿を見るだけで、昭和20年代後期には東京には数えきれないほどのプラスチック加工業者が存在している、昭和30年になると、それこそ膨大な数のプラスチック射出機、加工、金型の会社が存在する、

この電話番号簿で数えることが苦痛になるくらいだ、

もちろん、その広告にはプラスチック玩具制作等などと書かれているものが一杯ある、

 

だから、プラスチックモデルの金型を作る際の物凄い苦労話などは、僕としては疑問に感じてしまうのである。

 

 マルサンのノーチラス号より先に発売?        (2014年6月9日)

 

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日本模型新聞は数箱の段ボール箱に詰めて押入れの中にぶっこんでいるので、なかなか取り出して読む気がおきないが、たまには読んでみないとと思い、久しぶりにガサガサと押入れから取り出して朝から(僕はジジイなので朝が早い5時前には起きてしまう)パラパラと読んでみた、

 

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パラパラと読んでいるうちに、ふと目に止まったのが上の記事である、

まあ興味のない方はどうでもいい記事であるが、一応参考までに紹介しておこう、

 

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    (昭和47年3月6日号 日本模型新聞より (株)ジートッププレス監修済)

 

おやっ!!

この中の記事を読んでいくと、マルサンより前に潜水艦を発売したメーカーがあったらしい、今はなき大阪の某メーカーと記されている、もうおわかりの方はおわかりだろう、大阪のあのメーカーのノーチラス号のことだろう、(日本プラスチックのノーチラス号)

そしてこの記事の謎がまだある、なぜそのメーカーの名を明かさず某メーカーと記したのだろう、そして、プラモデルの本格的販売の第一走者がマルサンとある、そうその本格的というところがミソだろう、単品ではその某メーカーが先だったということだろう、

つまり、その時にマルサンはノーチラス号、ダットサン、哨戒水雷艇、ストラトジェット爆撃機、の4点を同時発売した、単品とあえて言っているのはそのことだろう、

当時この日本模型新聞の本社は大阪にあった、某メーカーとする理由が何か他にあったのかどうか、それとも何も意図がなくただ単に某メーカーとしたのか謎である、

 

まあとにかく、日本初のプラスチック模型発売がマルサンではないことは確かだろう、

 

③  マルサンより前にノーチラス号を発売        (2015年1月15日)

 

マルサンが日本初のプラモデルを発売したという定説が定着?したのはいつ頃からだろう、

いろいろな模型類の書籍を読むと、すでに40年近く前の書籍類ではそれが定着している、、

なぜそうなのかはよくわからない、まあ安易に当時のハッタリの広告をそのまま信じただけのことだろう、それとマルサン信者の方々がどうしてもそのようにしたいだけのことだろう、

 

 

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                    (昭和33年12月25日 日本模型新聞 ジートッププレス監修済み)

 

さて、マルサンの「ノーチラス号」の前に「ノーチラス号」のプラスチックモデルを発売したメーカーはどこだったのか、

以前にも紹介しているが、次の日本模型新聞の記事をもう一度読んでいただこう、

 

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     (昭和47年3月6日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス 監修済み)

 

この記事の中で「単品ではマルサンより前に大阪の今はなき某メーカーから潜水艦が出されてい

た頃」とあるが、この大阪の某メーカーとは「(株)日本プラスチック」のことだろう、

僕はこの潜水艦は所有はしていないが、現物は現存しているので間違いないだろう、

しかし、この記事ではなぜメーカーの名を具体的に明かしていないのだろう、

明かさないほうが都合がいい理由でもあるのだろうか、昭和30年代初頭に突然現れ、あまり活

動しないまま短期間で消滅してしまったであろうこの(株)日本プラスチックは業界内で何か問題

でも起こし消滅してしまったのだろうか、今となってはあまりにも資料も乏しく調べる術もない、いずれにしても謎に包まれたメーカーである、

 

その日本プラスチック ノーチラス号については http://www5e.biglobe.ne.jp/~sousei/nihon-p2.htm

                              http://www5e.biglobe.ne.jp/~sousei/nihonpura.htm

            (このサイトに現物の画像が載っている)

 

④  マルサンではないと痛烈に批判した人がいた、      (2015年6月18日)

 

日本でのプラスチックモデル第一号はマルサンではなく、「日本プラスチック」が先であることを再三書いてきたが、念のためにそのことを書いた書籍も紹介しておこう、

 

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昭和61年11月に出版されたこの「日本の模型業界七五年史」である、

この書籍は非売品だったらしいが、結構出回っているのでお持ちの方も大勢いらっしゃることだろう、お持ちでない方のために一応その記事のところを紹介しておこう、

 

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当時のマルサンについては評判がよくなかった、僕も以前に聞いていたが模型店主から

の評判は良くなかった、特に関西地区では評判が悪かったようである、

「マルサンのやり方はエゲツナかった」と、神戸地区でも一時はマルサン製品追放運動みたいな

ことまでなったという、

 

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そして、ここにプラスチックモデル第一号はマルサンではなく、(株)日本プラスチックであると反論し、痛烈にマルサンを批判している、何もかも俺のところが一番先だとハッタリかまして大嘘こいているマルサンがよっぽど気に入らなかったのだろう、この火星人の多田さんというお方、どのようなお方だったのだろう、今となってはかなり難しいが只今リサーチ中!!

 

そのマルサンが日本で初めてプラモデルの金型を作ったという脚色した苦労話など嘘、何度も言

っているようにその頃にはすでに数えきれないほどの金型業者、プラスチック加工業者が存在していた、あるいは、(株)日本プラスチックよりも前にプラスチック模型を発売していた会社があったかもしれない、しかし、そのマルサンの嘘も何十年も言い続けていると本当になってしまう(笑)

ただ、その日本プラスチックも今となっては謎のメーカーとなってしまい、社屋があったであろう、

場所には跡形もなにもない。

 

   火星人が判明、                  (2015年9月29日)

 

あの「マルサン商店」を痛烈に批判した「火星人」なるお方が判明した、

大阪は東淀川区にあった十三にも近い「火星模型店」の店主のお方であった、関西地区の模型業界のご意見番として、下記模型新聞の記事のように毎号記事を書かれていた方である、

ただ、今となってはその後のことはわからない、その模型店の住所も当時の住所しかわからない

ので大体の場所はわかるが、地番変更等があり特定はできない、

おそらく、当時その「火星模型店」に通っていた方もいらっしゃることだろう、

 

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       (昭和35年12月5日日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

 

  流通していた日本プラスチックのノーチラス号     (2015年9月30日)

 

マルサンより早くプラスチックモデルを開発し発売したのは日本プラスチックであることは、今までにしつこいくらい書いてきた、火星人の多田さんも昭和36年にはすでにそのことを述べており、マルサンを痛烈に批判していた、まあマルサン信者?の方々は何がなんでもマルサンが初だと言いたいらしく、正式な流通ルートにのせてプラモデルを発売したのはマルサンが初だとも言っている、その正式な流通ルートというのが学のない僕にはその意味がよくわからない、

しかし、その正式な流通ルートで発売したのも(株)日本プラスチックが初である、

もう、誰が何と言おうとも、(株)日本プラスチックが初なのである、

 

たしかに、日本プラスチック㈱は謎めいたメーカーである、昭和31年にゼロ戦のプラスチック模型の発売予告を載せたっきり、その後一切広告媒体等には現れていない、ノーチラス号の発売

広告等も一切載せていない、考えられることは広告掲載料をケチったということだろう(笑)

そして、その日本プラスチックのノーチラス号はちゃんと正式な流通ルートで全国に流通してい

た、その証拠が次の広告である、

 

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そう、東京の問屋さんの「三ツ星商店」の広告である、よく見ると、日本プラスチックのノーチラス号が載っている、

 

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            昭和34年6月25日 日本模型新聞 (株)ジートッププレス監修済み)

 

マルサン商店のタダのお飾りの動かないノーチラス号ではなく、(株)日本プラスチックの動くゴム動力のノーチラス号である、略して「日プ」としてある、

まあ、東京の問屋さんが取り扱っているので全国規模で流通していたことは間違いない、

なので、マルサンが言うところのプラスチックモデル開発、発売等の苦労話等は脚色された作り

話と言われてもしかたないことだろう、

アッ、そうそう、つい最近この(株)日本プラスチックのノーチラス号の現物を初めて確認した。

 

⑦  日本プラスチックの場所を特定           (2015年11月1日)

 

(株)日本プラスチックはマルサンよりも先にプラスチックモデルを開発し、流通ルートにのせて初売したことは先の記事でも書いた、それは日本模型新聞にも「ノーチラス号はマルサンよりも先に大阪の某メーカーが発売した」云々と記事にも載っている、

そして、昭和36年にはすでに大阪の「火星人」なる方が日本模型新聞に、「プラスチックモデルの第一号はマルサンではなく、日本プラスチックである」と痛烈にマルサンを批判する記事も載せている、それと、その日本プラスチックが発売したゴム動力のノーチラス号も東京の三ツ星商店の広告に載っている、また、そのノーチラス号の現物はすでに確認済み、

 

だから、(株)日本プラスチックがマルサンより先にプラスチックモデルを開発し発売したのは疑いようがない、事実だろう、ただ、そのノーチラス号をいつ発売したのかはまだ不明、また日本プラスチックが昭和31年にゼロ戦のプラスチックモデルを近日中発売という予告広告を載せたもののはたしてそれが実際に発売されたものなのか不明である、ま、僕の推測では発売されたのではないだろうか、

 

(株)日本プラスチックは本当に謎の会社である、確認している限りでは広告はそのゼロ戦予告発

売の広告だけである、ノーチラス号は発売の広告も載せていない、そしてノーチラス号を発売後

の消息はまったく不明である、忽然と姿を消してしまった、

そして、日本模型新聞はなぜマルサンより先に発売したのが日本プラスチックとメーカー名を出さづに大阪の某メーカーとしたのだろう、何かメーカー名を出すと不都合なことでもあったのだろうか、とにかく不明なことだらけの謎のメーカーである、

その日本プラスチックのノーチラス号の現物は僕は持ってないので、その現物の画像等は次の

サイトに載っているので観ていただいたらよい、http://www5e.biglobe.ne.jp/~sousei/nihonpura.htm

 

今回、その日本プラスチックの当時の住所が特定できた、

日本プラスチックは東京にも営業所を置いていた、

 

 

これは当時の全国の業者名簿、静岡のタミヤの関係者の方からいただいた、

実は、この名簿がなければ(株)日本プラスチックの謎を解くのは不可能であった、

これがなければ、日本プラスチックの東京の住所も電話番号もわからなかった、

 

 

この昭和35年発行の「全国模型教材業者」の名簿には、

 

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東京都北区田端町新町1-66

 

そして、本社は、

 

 

大阪府布施市長堂町2-90 

 

さて、そこは日本プラスチックとなっているだろうか、  

 

  日本プラスチックの場所を特定            (2015年11月2日)

 

いよいよ、日本のプラスチックモデルの歴史上最大の謎?とされる(株)日本プラスチックの実態

の謎を少しずつ暴いていこう、今回は探偵のように相当の推理力が試される、そう、仮定の話で

答えることはできないなどとよく政治家が言うが、今回は仮定したうえで推理していかなければ

謎を解いていくことはできない、なんと言っても当時から日本プラスチックは実態がよくわからない謎の会社のようだったので、

 

さて、前頁に続いて、その該当地番に該当する会社名は、

 

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そう、この鉛筆で示している場所が該当の地番である、この地図の画面だけで大体徒歩5分圏内

だろう、

小さくて見えないので拡大してみよう、

 

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その前にもう一度本社の住所を、大阪の布施市長堂2-90 である、(布施市は現在の東大阪市)

 

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これで、現在の場所は特定できるだろう、目印は消防署分署の北側の隣、

その該当地番の場所には、アレッ、(株)日本プラスチックではなく、(資)大阪化学研究所となっている、全然会社名が違う、いやいやこれはまだ想定内、元々当時から日本プラスチックは実態がよくわからない会社だったのでそう簡単にはわからない、

 

それはさておいて、この徒歩5分圏内の地図を見てみると、う~ん、なるほどそのような地区

だったのかと納得してしまう、

 

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なんと、この徒歩5分圏内には、プラスチック加工会社、化学会社、セルロイド会社、金型関係、工作機械関係、金属関係、の会社が密集しているのである、

これらのこと考慮して、日本プラスチックの東京営業所の住所をあらためてみてみよう、

 

 

次に、この東京支店が載っているので実際にその東京に存在していたのかどうか調べてみよう、

大阪の本社の住所の該当地番にも全然会社名が違う会社が存在しているので、この東京支店も

怪しくなってくる、はたして存在していたのだろうか、

東京地区に関しては昭和30年代の住宅地図が存在しないのでその場所を特定することはでき

ない、実は昭和30年代からの住宅地図が存在するのは大阪府下だけらしい、大阪府下の都市

なら存在する、先日紹介したとおり吉田地図へ問い合わせるとよい、

 

ならば確認する方法は電話番号簿である、

 

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そこで、用意したのがこの東京の電話番号簿、昭和31年、33年、34年の番号簿、である、

実は昭和28年版もあるが今回は用がない、まあ、このような電話番号簿を用意できるのは全国

広しといえ僕だけだろう、東京の国立図書館にいけばあるのだろうか、いや、ないかも、

あと静岡版が欲しいがなかなか市場には出てこない、

実は、これらの古い電話番号簿もないと今回の調査は100パーセント不可能である、

まさに電話番号簿は僕にとって必需品なのである、

 

これで、その東京支店の存在を確認すればいい、

しかし、この電話番号簿にも載ってないかも、大阪の本社も地図に載ってないのでその可能性が

高い、いやいや、それも想定済み、他にも調べ方に手段はある、

 

   大阪市立図書館、 法務局へ、            (2015年11月4日)

 

昔の該当場所に行って日本プラスチックスのことを聞きまわってもそれは無駄なこと、

元々、日本プラスチックスは存在していなかったのだから(この言い方が正しいのか間違いなの

かは判断に迷うが)、会社の建物も事務所も元々ない、それらの理由等については、これからの

ブログで少しづつ解明していく、

 

今日は大阪市立図書館へ行ってきた、

もちろん、日本プラスチックスの謎を解くための調べものである、

そう、ゼロ戦や、ノーチラス号をどこの秘密工場?で製造していたのか、もちろん、これも推理、発見できればいいが、なんと言っても僕の推理に基づくものなので見つかるかどうかわからない、一昨日の月曜日に(株)日本プラスチックスの登記簿謄本(閉鎖済み)を東大阪の登記所でとってきたので、まずはご覧いただこう、

 

なんと言っても、今はなき50数年前に活動を停止し登記簿謄本も閉鎖済みになっていたので、職員の方が謄本を探していただくにに1時間以上もかかった、それに似た会社名もあった、そう、同じ名前の会社もあった、登記簿謄本が存在していたので日本プラスチックの存在自体は確認できた、

 

この謄本の中で気になる箇所が2か所ある、

 

 

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記載事項はほんの僅か、隅から隅までよ~く見たら記載事項で気になる箇所がある、

それにも気が付かないと、謎は解けない、    

 

⑩  電話番号はまったく別の会社の番号           (2015年11月5日)

 

登記簿謄本でその存在は確認できた、ただ、日本プラスチックスの全体像、詳細等の調査は困難であり、これからも解明されることはないだろう、永遠に、なんと言っても当時の関係者のほとんどが亡くなられているであろうし、仮にそのご家族に会っても当時のことがわかるはずがない、

当時はまだ生まれていないだろうし、仮に生まれていても幼児の頃だろう、それはそれは無理な

話である、

そう、日本プラスチックスの活動は僅か4年前後であったはずだから、昭和31年から長くて35年までの4年間であったと推測される、

本気で日本プラスチックスのことを調べようと思ったのが先月の月末頃、そして、その存在が確認できたのが昨日なので5日間要したことになる、

当時の関係者を探し出し(まだお元気な方が存在すれば)調査すればよいが、お元気でいらっしゃる可能性は極めて低いだろう、あとは東大阪地区当たりでゼロ戦のプラスチックモデルが突然出現することを祈るのみである、

 

それでは、もう一度日本プラスチックスの東京支店の存在を電話番号簿で調べてみよう、

 

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この3冊で見ても見当たらない、

 

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ない、ない、(株)日本プラスチックの名がない、それらしき会社もない、電話番号簿にも載ってないのか、ついに、電話番号簿でも日本プラスチックの存在が確認できないのか、

しかし、ちょっと待て、今でこそ電話番号簿はほとんど使われることもなくなった、

が、昔の電話番号簿の存在というものは今とはまったく違っていた、そう、昔の電話番号簿は自

分の存在をPRする媒体でもあった、今とは違って個人情報がどうのこうのというややこしい時代ではなかった、電話番号簿に載るということはある意味ステータスでもあった、個人でも商売している所は別として、電話を設置している家庭は少なかった、そして電話局も契約している先については全てこの電話番号簿に載せていた、

 

だから、電話を設置していながら電話番号簿に載っていないということはまづありえないだろう、

ということは、あと考えられることとしては、そう、ひょっとしたら他の名義で電話を契約していたのかもしれない、日本プラスチックの名ではなく、他の名義で、

 

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それならば、再び昭和33年の電話番号簿で調べてみよう、

日本プラスチックの名ではなく、同じ住所、同じ電話番号のものが載ってないか、

一生懸命探していたら、アッタ!! 同じ住所、同じ電話番号のものが、そしてそれが個人名義

で、 なぜ日本プラスチックの名でなく個人名で契約してあったのか、それはわからない、

大阪の本社の電話も自社の電話ではなく、某会社の電話番号であったのである、 

 

次ページ ⑪へ続く、 ㈱日本プラスチックの謎に迫る