アラ還 ~ 毎日が日曜日 -36ページ目

アラ還 ~ 毎日が日曜日

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 定年退職をしたならば、囲碁を一から勉強し直そう、好きな作家である伊坂幸太郎、森博嗣、東野圭吾、内田康夫、西村京太郎、村上春樹、佐伯泰英などの本を読もう、テニスをしよう、畑で野菜を作ろう、あれもしたい、これもしたいと楽しみにしていた。
 退職して日が経つにつれて、本を読む、テニスをする、囲碁をする、野菜を作るのは楽しく充実しているが、この生活を死ぬまで続けるのかと、物足りなさを抱き、男の平均寿命が80才に近い長寿社会において、長い余生をどう生きるか模索する日ができてきた。そんなとき、誘われて現役時代に馴染みであった居酒屋へ行った。
 退職前に勤務していた会社の先輩であったM氏、後輩であったN氏、W氏の4人が集まった。
 近況を報告し合う中で、定年退職後も再雇用されて勤務を続けるM氏は、「私は生涯、人のために生きる」と意気盛んであった。
 M氏は、地域の役員もしているそうだ。土・日は、地方祭、運動会、地域の道路の清掃、子供会活動など多種多様な行事の準備と実施に結構忙しいとのことである。

 生き生きとしたM氏を見ながら、以前読んで、記憶に残っている二つの新聞記事を思い出した。
「近頃のニュースは暗いことばかりですが、厳しい現実に立ち向かって努力している人、どんなときでも誠心誠意頑張っている人がたくさんいます。
 大きな壁にぶち当たったとき、誰かに出会い解決したという経験がある人がいるでしょう。 私たちはみんな一人で生きているのではありません。自分一人だけということは絶対に有りません。お互いに助け合って、自分に縁のあるところで人のためになるように行うことが自分自身を高めていく助けになるのです。自分は一人ではないと信じ、自分と誰かのために尽くせる生き方一緒に探しましょう。……」

 もう一つは
「今までいくつかの苦難もあったが、趣味を持ち、頑張っていたものの、ふと自分は今から何のために生きていくのだろうかと思うことがある。衰えていく体への不安を思うとき、何を楽しみに、どう生きていけばいいのか、試行錯誤の毎日であったが、たまたま新聞で見た『なぜ生きる』という本を読んで、考えた。残り少ない人生を、くよくよするのは何のためだったのだろう。もっと前向きに明るく生きてみよう。今から自分への挑戦である。……」

 さらに、古代インドの人生についての考え方を述べている五木寛之著の「人間の覚悟」の中の一説も思い出した。
 いずれも私が、「アラ環」だから記憶に残っているのであろう。
「人生を100才までとすると、25才くらいまでは、様々なことを学び、トレーニングを積む期間である。それから50才くらいまでは、結婚して子供をもうけて家族を養う期間である。この期間は社会人、家庭人として多忙な期間である。そして、75才くらいまでは、今一度人生を振り返って自分の生きたいように生きる。できれば自分のために働くのを止めて、無償でも人のためになることをする期間である。75才からは、とことん自分を見つめる。そしていつ来るかもしてない死を前に自然に回帰していく時間である。」

 私は思う。「人生の後半は、前向きに明るく生きよう。そして、自分の人生を見つめ直し、自分に挑戦してみよう」と。
 数学は基礎的な学問として、他の自然科学や工学の基礎付けに不可欠なものであったが、近年は更に経済学など社会科学の分野にも応用されるようになった。現在では数学は実社会にも役立つ有用な学問であるというのが一般の見方になっている。そして、数学的な概念の一部が一般の社会生活にも浸透しつつある。
例えば、本来は数学用語であった「確率」に関連して天気予報の降水確率が日常的に使われるようになったのは典型的な例である。
また、最近の科学技術の進歩は目覚ましく、それに伴って社会も大きく変化しつつある。社会の情報化・国際化は、誰の目にも顕著であるが、その大きな要因としてコンピュータの進歩が挙げられる。コンピュータは、天気予報や子供のゲーム、あるいは家庭電化製品に用いられるなど我々の生活に直接的、間接的に深く入り込んできているが、その原理や実際上の応用において、数学と密接に関連しているのである。


更に、数学の目をもって周りを見渡してみると、数学と我々の生活は表裏一体であることに気づく例を、身近なところから二つ述べる。
どんな商品にもバーコードが付いていて、レジの人がバーコードにレーザーを当てると、その商品のメーカー名や商品名を始めすべての情報が登録できる。だからレジでの所要時間が大幅に短縮され、商店側にも在庫管理などに革命をもたらした。実はこの背景に数学があるのだ。
商品に付けられたバーコードは、13桁の数で、句に、メーカー、商品などを表している。そして、読み取りミスを防ぐために、「チェック・ディジット」と呼ばれる数字を末尾に付けている。チェック・ディジットは、(左から奇数桁目の数の和)+3×(左から偶数桁目の数の和)が、10の倍数になるように値が定められている。
例えば、バーコードの数字が 4908349112056ならば、
              (4+0+3+9+1+0+6)+3×(9+8+4+1+2+5)=110
となり、確かに10の倍数になっている。もしもこの数字が10の倍数になっていなかったら、読み取りミスを通知してくれるのだ。このような簡単な数の規則を応用した数の読み取りミスを防ぐシステムは商業、行政など多方面において活用されている。


ワシントンを中心とする北米東部中心に、2004年5月から7月にかけて17年蝉が異常発生したニュースが報じられたことを覚えている。アメリカ大陸には13年の寿命をもつ13年蝉と、17年の寿命の17年蝉がいることが知られている。13年蝉は13ごとに、17年蝉は17ごとに異常発生する。
異なる寿命をもつ2種の蝉が同時に発生すると、交雑による子孫の絶滅や、天敵や餌の関係で子孫の滅衰に繋がることがあるから、2種の蝉が同時に大発生することを回避するように摂理が働いていると、吉村仁教授は著書の中で、素数蝉(1と自分自身意外に約数をもたない数を素数という)について述べている。
例えば、13年蝉と17蝉が、2012年に同時に大発生したとする。13年蝉は2025年、2038年……に大発生する。17年蝉は2029年、2046年……に大発生する。そして、再び両種の蝉が同時に大発生するのは、13と17の最小公倍数である221年後である。何と長いことか!
参考文献「秋山仁のこんなところにも数学が!」扶桑社文庫
 地獄と極楽についての話は、我が国に限らず世界各国に数え切れないほどある。わが国では、「良い行いをする人は極楽へ行き、悪い行いをした人は地獄へ行く」は最も一般的である。更に、「それでは地獄・極楽はどんなところか」と問われると、私は、なんとなくは分かるが、自信をもって明確に答えるのは難しい。地獄と極楽はこの世にもあの世にも存在するから混同するのも一因であろう。
この世の地獄と極楽は、日常生活の中で実感できるから分かりやすい。ただ、何を地獄といい、何を極楽というかは、人さまざまである。苦しみのMaxを地獄といい、心地よさのMaxを極楽と考えるのは一般的である。
あの世では、地獄と極楽どちらに行くかは、閻魔さまが決めるのであろうが、どんなところかについては、フランスのミッテラン大統領もその話を聞いて大変感動し、フランス語に翻訳させたと言われている面白い話がある。
 ある人が地獄を見学に行った。地獄の入り口で閻魔様に見学したいと申し込むと、閻魔様は「お前のような人間の来るところではない」という。玄関の窓から中を覗いてみると、食卓にはたいへんなご馳走が並んでいる。たこ酢やら、鯛の刺身、おいしそうな寿司などが明るい部屋の中に並び食欲をそそる。よく見ると、地獄に入れられた人々は、そのご馳走の間を行き来しているが、どの人もみんな痩せていて骨ばかりのように見える。一方の手は使えないように縄で縛られ、もう一方の手には3尺(約1m)もある長い箸が紐で結びつけられている。人々はお腹を空かして箸をしきりに動かしてご馳走を口に入れようとしている。しかし、箸が長すぎて御馳走がほとんど口に入らない。やっと口に届いたと思うと、ほんの少しばかり食べると落ちてしまう。御馳走を目の前にして、誰も皆お腹を空かしているのだ。
 地獄を見学した後、隣の極楽を見学することにした。極楽の様子は意外なことに前に見た地獄の部屋と変わらない。長い箸を持たされた人々が何人も行き来しているのも地獄の部屋と同じだ。ただ一つの違いは、どの人も皆御馳走を箸で挟んでは、それを自分の口ではなくて自分の周りにいる人の口に入れているではないか。地獄では、痩せた人たちがいたのに、極楽では誰も皆健康そうで、幸せそうに見えた。
最近知ったのであるが、千葉県安房郡にある延命寺所有の地獄絵から作った絵本を見せての幼児教育があるそうである。「悪いことをすると地獄へ行くゾ」、「嘘をついたら地獄へ行かされ、閻魔さまに舌を抜かれるゾ」とネガティブな教育には、私は賛意を抱かない。私は、人は生まれながらに善であると思っているから、地獄絵を見せて悪を知って善を知らせることをあえてしなくても、幼児は素直に成長すると思っている。
人は誰も、この世でもあの世でも極楽がいいはずだ。極楽とは、「長い箸で自分の周りの人の口に食べ物を入れる」という助け合い、思いやりの心をもって生きる所だ。自分の身に比べて、人の身について思う生き方をすれば、この世は極楽になるし、あの世に行った時も閻魔様は極楽に行くように決定するはずだ。私も、極楽に生き、極楽に行きたい。