江戸時代、武士から庶民までの、数学が仕事に必要な人・数学を学んで出世したい人・数学が好きな人は、「塵劫記」を教科書として学んだ。その内容は、以下のような実用を重視した生活密着型のものであった。
1命数法
一、十、百、千、万、億、兆、京(けい)、垓(がい)、 (じょ)、穣(じょう)、溝(こ う)、澗(かん)、正(せい)、載(さい)、極(ごく)、恒河沙(ごうがしゃ)、阿僧祇 (あそうぎ)、那由他(なゆた)、不可思議(ふかしぎ)、無量大数(むりょうたいすう)
2割り算の九九
二の段 1÷2 にいちてんさくのご
三の段 1÷3 さにちさんじゅうのいち 2÷3 さんにろくじゅうのに
四の段 1÷4 しいちにじゅうのに 2÷4 しにてんさくのご
3÷4 しさんしちじゅうのに
五の段 1÷5 ごいちかいち 2÷5 ごにかに 3÷5 ごさんかさん 4÷5 ごしかし
以下略
3算盤を使った計算法
銀十匁(もんめ)で、四斗三升二合の米を買えるとすると、ハ百十石の米はいくらになるか。
他に、平方根や立方根の計算である開平、開立。
4計測
鼻紙を二つに折って直角二等辺三角形を作り、一辺が垂直になるように隅に小石をぶら下げ る。斜辺の延長に木の頂点が来るように移動し、そうなった地点から木の根元まげの長さを測 ったら7間であった。地面まで半間ほどの高さであるから、気の高さは7間半である。
5ねずみ算
ネズミの夫婦が、正月に12匹の子を生む。オスとメスは半々である。次の月は、親が12匹、そ の子たちもオスとメスがカップルになって、それぞれ12匹づつ子を生む。この時点で、ネズミ は合計98匹になっている。これを毎月繰り返すと、年末の12月には、全部で何匹になっている か。 答は、276億8257万4402匹
6遺題
(1)辺cを斜辺とする直角三角形の辺の長さがa+c=81、b+c=72のとき、a,b,cそれぞれの長さを求めよ。
(2)上底の円周が2尺5寸、下底の円周が5尺、高さが3間の円錐台を体積が等しくなるように3等分したとき、それぞれの高さはいくつか。
(3)松80本と檜50本で銀2貫790匁、松120本と杉40本で銀2貫322匁、杉90本と栗150本で銀1貫932匁、栗120本と檜7本で銀419匁のとき、檜、栗、杉、松の値段は1本当たりいくらか。
京都で算学塾を開く毛利重能の高弟3人の中に、吉田光由(みつよし)という和算の発展に大きく貢献したベストセラー作家がいた。吉田光由は、大堰川、高瀬川などの開削を行い、京都で「水運の父」として知られた角倉了以(すみくら)を外祖父とし、金融業や海外との貿易、土木事業などを手広くやっていた角倉一族の一人であった。
ある時、一族が明との貿易で輸入した漢書の中に、「算法統宗」があった。吉田は、漢学の素養のある角倉一族の協力を得て、算盤(そろばん)だけでなく、命数法や九九などの基本の解説から始まる「算法統宗」を学んだ。そして、1627年に算術の教科書といえる「塵劫記」を出版した。
内容は、最初は、算術の基本の基本である「命数法」:一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、じょ、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数。
次は、かけ算の「九九」:中国から伝わった九九は、九九・八十一から始まるが、一の段は無駄だからと省略し、二二・四から始まり、三六・十八と六三・十八は同じだから九々の
半分だけ覚えればいいと、現実に即した発想で改訂した。
続いて「割り算の九九」:現在はほとんど使わないが、昔は算盤を使うとき、割り算の九九を知っておくほうが速くなるから覚える必要があった。
例えば、三の段の九九は、1÷3、2÷3、3÷3があり、2÷3の読み方は、「さんにろくじゅうのに」であり、20÷3=6余り2を意味し、割る数、割られる数、商、余りの順に数を並べているのである。
続いて、算盤を使った計算法、商取引・計量・計測・両替など日常生活に即した計算問題、ネズミ算・盗人算・入れ子算・俵杉算などのクイズ風の問題など実用を重視した生活密着型の内容を、多くの絵を使って記しており、専門家だけでなく庶民に算術に興味を持ち、問題を解く魅力を知らしめた。寺子屋の教科書になっただけあって、「塵劫記」と名のつく解説本や海賊版が多数出版された。そこで、吉田光由は、誰にも真似のできない新装版を出そうと思い、家が製版業を営んでいたことを生かして、四色刷りのカラー版を出版した。このカラー版が人気に拍車をかけた。
吉田光由は、最後の版の「塵劫記」の中で、「簡単に云わんとするところを書けば、世の中にはさほど数学の力もないのに塾を作り、多数の人に教えている人がいる。教わる人から見れば、自分の師が力があるかどうかわからないだろう。算盤の計算が速いからといって、数学の力があるとは決まっていない。ここに法(答えまでの道筋)の無い12問の問題を出しておくから、これで自分の師を試してみればよい。」と述べ、難問を巻末に付録のように載せた。これは「遺題」と呼ばれ、江戸時代の数学レベルを上げる原動力となった。
参考文献 桜井進著「江戸の数学教科書」
ある時、一族が明との貿易で輸入した漢書の中に、「算法統宗」があった。吉田は、漢学の素養のある角倉一族の協力を得て、算盤(そろばん)だけでなく、命数法や九九などの基本の解説から始まる「算法統宗」を学んだ。そして、1627年に算術の教科書といえる「塵劫記」を出版した。
内容は、最初は、算術の基本の基本である「命数法」:一、十、百、千、万、億、兆、京、垓、じょ、穣、溝、澗、正、載、極、恒河沙、阿僧祇、那由他、不可思議、無量大数。
次は、かけ算の「九九」:中国から伝わった九九は、九九・八十一から始まるが、一の段は無駄だからと省略し、二二・四から始まり、三六・十八と六三・十八は同じだから九々の
半分だけ覚えればいいと、現実に即した発想で改訂した。
続いて「割り算の九九」:現在はほとんど使わないが、昔は算盤を使うとき、割り算の九九を知っておくほうが速くなるから覚える必要があった。
例えば、三の段の九九は、1÷3、2÷3、3÷3があり、2÷3の読み方は、「さんにろくじゅうのに」であり、20÷3=6余り2を意味し、割る数、割られる数、商、余りの順に数を並べているのである。
続いて、算盤を使った計算法、商取引・計量・計測・両替など日常生活に即した計算問題、ネズミ算・盗人算・入れ子算・俵杉算などのクイズ風の問題など実用を重視した生活密着型の内容を、多くの絵を使って記しており、専門家だけでなく庶民に算術に興味を持ち、問題を解く魅力を知らしめた。寺子屋の教科書になっただけあって、「塵劫記」と名のつく解説本や海賊版が多数出版された。そこで、吉田光由は、誰にも真似のできない新装版を出そうと思い、家が製版業を営んでいたことを生かして、四色刷りのカラー版を出版した。このカラー版が人気に拍車をかけた。
吉田光由は、最後の版の「塵劫記」の中で、「簡単に云わんとするところを書けば、世の中にはさほど数学の力もないのに塾を作り、多数の人に教えている人がいる。教わる人から見れば、自分の師が力があるかどうかわからないだろう。算盤の計算が速いからといって、数学の力があるとは決まっていない。ここに法(答えまでの道筋)の無い12問の問題を出しておくから、これで自分の師を試してみればよい。」と述べ、難問を巻末に付録のように載せた。これは「遺題」と呼ばれ、江戸時代の数学レベルを上げる原動力となった。
参考文献 桜井進著「江戸の数学教科書」
高校数学を語るとき、「微かに分かった積もり」という人もいる「微分・積分」と共に、「サイン、コサイン何になる…」と歌詞にもある「三角比」のサイン・コサイン・タンジェントを思い浮かべる人は多い。
ここでは、サイン・コサイン・タンジェントという名の由来について述べる。
ギリシャ人のアリアバタ(Aryabhatta、476?~550?)は、扇形からできる弦ABの半分をjyardhaと呼び、後に省略してjivaと呼んだ。即ち、「サイン」の概念をjiva(ジャイバ、弦の意味)と呼んだ。角度を長さで置き換えようとした時、ギリシャ人の頭の中には、弓が浮かんだらしい。
概念は、人伝えに方々へ広がっていく。ギリシャ人の生み出したjivaという概念を知ったアラビヤ人は、それにjayb(ジャイブ、凹所、入江の意味)という訳語を当てた。
そして、更にアラビヤから伝わってきたjaybという概念に対して、ヨーロッパ人は、ラテン語で同じく「凹所、入江」の意味であるsinus(シヌス)という語を当てた。
更に、このsinusをイギリス人は、彼らの言葉である英語sineに訳した。後に「e」が省略されるようになりsin(サイン)として定着したのである。
sinを日本語では「正弦」と訳しているが、これは中国の明時代の漢語訳をそのまま輸入した名前であり、ヨーロッパのように「凹所、入江」と訳すのではなくて、「弦」と訳した中国人は、ギリシャ人の概念理解により忠実であったといえよう。
ちなみに、正弦の「正」の字は、「正しい」という意味ではなくて、「基準の、大元の」という意味である。つまり角度を長さで置き換えるという概念はサインを基準としているのである。
コサインの概念は、インドで生まれた。サインの概念を知ったインド人は、余りの角のサインを考えてもいいのではないかと考えたのである。インド人達は、この余った角のサインをcotijiva(コティジバ)と呼ぶことにした。この名前が、サインの場合とは逆に、東方から西方へと伝わり、sinus residvi(余角の正弦)、sinus complenti(補足の正弦)、co-sine(共正弦)と様々に使われる中で、cos(コサイン)という表記に定着していったのである。これを余弦という名で呼ぶの、文字通り「余りの角の正弦」だからである。コサインは、サインから生まれたのである。
中世になって、ラテン語で、水平の影・垂直の影をumbra vecta(余接の意味)・umbra versa(正接の意味)と呼んだが、この呼び方は18世紀以降も使われた。このumbra versaに対してtangentという語を用いたのはトーマス・フィンケ(デンマーク)である。
ちなみに高校数学においては、三角比を以下のように定義する。
直角三角形の一つの角の大きさをAとし、直角三角形の最長辺を斜辺、角Aと隣り合った辺を隣辺、残りの辺を対辺とする。このとき、比:(斜辺の長さ)分の(対辺の長さ)の値は、角度によって変わるが、直角三角形の大きさには無関係であり、この比の値をsinAとする。cosAは(斜辺の長さ)分の(隣辺の長さ)であり、tanAは(隣辺の長さ)分の(対辺の長さ)であると定義する。
参考文献 畑村洋太郎著の「直観で分かる数学」
大矢真一・片野善一郎共著の「数学と数学記号の歴史」
ここでは、サイン・コサイン・タンジェントという名の由来について述べる。
ギリシャ人のアリアバタ(Aryabhatta、476?~550?)は、扇形からできる弦ABの半分をjyardhaと呼び、後に省略してjivaと呼んだ。即ち、「サイン」の概念をjiva(ジャイバ、弦の意味)と呼んだ。角度を長さで置き換えようとした時、ギリシャ人の頭の中には、弓が浮かんだらしい。
概念は、人伝えに方々へ広がっていく。ギリシャ人の生み出したjivaという概念を知ったアラビヤ人は、それにjayb(ジャイブ、凹所、入江の意味)という訳語を当てた。
そして、更にアラビヤから伝わってきたjaybという概念に対して、ヨーロッパ人は、ラテン語で同じく「凹所、入江」の意味であるsinus(シヌス)という語を当てた。
更に、このsinusをイギリス人は、彼らの言葉である英語sineに訳した。後に「e」が省略されるようになりsin(サイン)として定着したのである。
sinを日本語では「正弦」と訳しているが、これは中国の明時代の漢語訳をそのまま輸入した名前であり、ヨーロッパのように「凹所、入江」と訳すのではなくて、「弦」と訳した中国人は、ギリシャ人の概念理解により忠実であったといえよう。
ちなみに、正弦の「正」の字は、「正しい」という意味ではなくて、「基準の、大元の」という意味である。つまり角度を長さで置き換えるという概念はサインを基準としているのである。
コサインの概念は、インドで生まれた。サインの概念を知ったインド人は、余りの角のサインを考えてもいいのではないかと考えたのである。インド人達は、この余った角のサインをcotijiva(コティジバ)と呼ぶことにした。この名前が、サインの場合とは逆に、東方から西方へと伝わり、sinus residvi(余角の正弦)、sinus complenti(補足の正弦)、co-sine(共正弦)と様々に使われる中で、cos(コサイン)という表記に定着していったのである。これを余弦という名で呼ぶの、文字通り「余りの角の正弦」だからである。コサインは、サインから生まれたのである。
中世になって、ラテン語で、水平の影・垂直の影をumbra vecta(余接の意味)・umbra versa(正接の意味)と呼んだが、この呼び方は18世紀以降も使われた。このumbra versaに対してtangentという語を用いたのはトーマス・フィンケ(デンマーク)である。
ちなみに高校数学においては、三角比を以下のように定義する。
直角三角形の一つの角の大きさをAとし、直角三角形の最長辺を斜辺、角Aと隣り合った辺を隣辺、残りの辺を対辺とする。このとき、比:(斜辺の長さ)分の(対辺の長さ)の値は、角度によって変わるが、直角三角形の大きさには無関係であり、この比の値をsinAとする。cosAは(斜辺の長さ)分の(隣辺の長さ)であり、tanAは(隣辺の長さ)分の(対辺の長さ)であると定義する。
参考文献 畑村洋太郎著の「直観で分かる数学」
大矢真一・片野善一郎共著の「数学と数学記号の歴史」