北康利著の「西郷隆盛 命もいらず名もいらず」を読み始めてから、かなりの日数が経った。幕末から明治初期にかけての多数の魅力ある人物、出来事を記したノンフィクションである。内容が重厚であるために軽く読み進めることができないのだ。ほとんど忘れてしまったが、高校時代に習った歴史の教科書を思い出しながら読んでいる。また、今年の6月中旬に読み終えた山本兼一著の「命もいらず名もいらず」と時代が同時期であり登場人物や出来事が重複しているのだが、記述に多少の相違点があるために、どちらが本当なのかな、どこまでが真実なのかなと思いながら読んでいる。そんなこともあってともかく面白い。
いずれの著者も膨大な参考文献や資料に基づいての記述であり、多くの参考文献の基は史料である。その史料に書かれていることが果たしてすべて真実かといえば、若干の脚色や間違いもあるのではないだろうか。いつの時代でも勝者に有利なように解釈し、記録を残すことは、珍しくないのだ。そして、その史料を基に書かれたものが世に出回ると、いつしかそれが真実として定着する場合もあるのではなかろうか。真実かどうか気になる出来事・人物について考えてみた。
一つは、有名な出来事である47人の赤穂浪士が仇討ちをした忠臣蔵だ。吉良上野介を悪役としているが、果たして上野介は理不尽な行動を浅野内匠頭にしたのであろうか。吉良は、領地においては堤防を整備するなど名君であったと、今に伝わっているのだが……。
二つ目は、「長篠の戦」の持つ歴史的意義である。高校時代の教科書の記述は忘れたが、広辞苑には、「1575年、織田信長と徳川家康の連合軍が、新兵器の鉄砲を使用して、武田勝頼を破った」と記述されている。そして、種々の歴史を記した出版物には、「長篠の戦は、鉄砲と馬の戦いであり、鉄砲の威力を最大限に発揮し、以後の戦の方式を一変させた」と評している。
ところが、長篠の戦が行われたのは、6月中旬から下旬にかけてであることが分かっている。梅雨である時期に、火縄が濡れてしまえば使用できない鉄砲を前面に出しての戦いを信長がしたとは思えないと疑問を抱いた学者によって研究が為された。その結果、鉄砲が主武器ではなく、事前に馬防柵などを設置した場所を戦いの場とした信長の作戦勝ちであると結論を出した……。
三つ目は、徳川慶喜の人物像である。才知に優れていたのか、強い信念を持っていたのか、そうではなかったのか、多くの史料が残っているにもかかわらず、評価の分かれる人物である。倒幕を目指す薩長の機先を制しする目的で大政奉還をした。政権を返された朝廷は、250年以上も政権から遠ざかっているために政治を行う能力が無いから、実権は慶喜が握り続けざるを得ないというからくりである。このことだけでなく慶喜は、政治的駆け引きを何度も行っている。慶喜の評価が分かれるのは、1868年1月3日に始まった鳥羽・伏見の戦いにおいて、「自分も、ここで最後まで戦う」と言っておきながら、1月6日の夜に、こっそりと松平容保と共に大阪城を抜け出し、船で江戸に逃げ帰ったことである。これによって、戊辰戦争の行方が決まってしまったのである。この行動の真意はどこにあったのか……。
歴史は見方によって変わってくる。見方は人によって変わる。
歴史を柔軟に捉えることを忘れてはならない。