そう言う訳で、先週はお休みしましたが、『月夜の人魚』を再開したいと思います。
ぼちぼち後半戦に突入です。
では、スタート!
魔法少女まどか☆マギカ~月夜の人魚~
第8話 引き止められる場所にいねえよ
☆
放課後の校舎は、夕陽に染まり始めていた。
昇降口へ向かう途中、まどかはふと足を止めた。
胸の奥が、昨日からずっと重いままだった。
「まどか」
背後から静かな声がした。
振り返ると、ほむらが立っていた。
その表情はいつも通り冷静で、どこか遠い。
「……ほむらちゃん」
ほむらはまどかの顔を見て、ほんのわずか眉を寄せた。
「……美樹さやかのことね?」
まどかは俯いた。
少しだけ沈黙が流れる。
昨日のさやかの言葉が胸に刺さったまま抜けない。
(嫌なら、一緒に来なくてもいいよ)
喉がきゅっと締めつけられる。
「……さやかちゃんが魔法少女じゃなかったら、あの時私も、仁美ちゃんも、死んでたの……」
ほむらはまどかをじっと見つめた。
その瞳は、まどかには読み取れない感情を湛えていた。
「感謝と責任を混同しては、駄目よ」
まどかは顔を上げる。
ほむらの声は静かだった。
だが、その静けさがかえって胸に刺さった。
「あなたには、彼女を救う手立てなんてない。引け目を感じたくないからって、借りを返そうだなんて……そんな出過ぎた考えは捨てなさい」
「……どうして?」
まどかは思わず問い返した。
夕陽がほむらの横顔を赤く染める。
その影は、どこか人間離れして見えた。
「ほむらちゃん、どうしていつも冷たいの?」
その問いに、ほむらはほんの僅かだけ目を伏せた。
「そうね……」
静かな声だった。
ほむらは小さく息を吐いた。
一瞬だけ、自嘲するようにほむらの口元が揺れる。
「それは、きっと――もう、人間じゃないから、かもね」
まどかは息を呑んだ。
ほむらの言葉は、夕暮れの空気よりも冷たく、それでいてどこか悲しかった。
その様子を、高い木の枝から一匹の蜂が見つめていた。
黒い複眼。
――いや。
それは複眼ではなかった。
見れば、その蜂は頭部がそのまま人間の眼球になっている、不気味な姿だった。
羽音を小さく響かせると、蜂は夕焼け空へ飛び去っていった。
☆
同じころ、さやかは咲夜の研究室に戻っていた。
ドアを開けると、薬品の匂いが鼻をくすぐる。
いつもと変わらず、研究室は魔女の使い魔と思しき標本、配線の剥き出しになった奇妙な装置が所狭しと並んでいる。
そのどれもが雑然としているようでいて、不思議と咲夜には置き場所が決まっているらしかった。
咲夜は椅子をくるりと回し、いつもの人懐っこい笑顔を向けた。
「どうでした? 私からのイースタープレゼント」
さやかは少し息を整えながら、鞄の中の金縁のグリーフシードを思い出す。
あの時、全身を駆け巡った圧倒的な魔力の奔流。
魔女を一瞬で粉砕した時の全能感が、まだ身体の奥に残っている。
「うん……すごかった。なんて言うか……今までより強くなった気がする」
咲夜はぱっと表情を明るくした。
「そっか、そっか! 力になれて嬉しいです」
子供が褒められた時のように、咲夜は何度も頷く。
その笑顔は、いつもの無邪気なものだった。
「でもさ……。あのグリーフシード、何なの? ただ穢れを払うってだけじゃなかった感覚なんだけど……」
さやかが違和感を覚えているのも無理はない。
通常のグリーフシードは、あくまでソウルジェムに溜まった穢れを除去するだけのアイテムに過ぎない。
なのに、咲夜がさやかに渡した金縁のグリーフシードは、穢れを払うのみならず、さやかの身体能力まで向上させたのだ。
「む~ん、言ってませんでしたっけ。あの金縁グリーフシードは、ただソウルジェムの穢れを払うだけでなく、さやかさんの身体能力をブーストする効果もあるんです」
「そうなの?」
「ただ、ちゃんと効くか少し不安だったんですよ。理論上はいけるはずだったんですけど、理論と実際は違いますからねえ」
「……あたしで試したってこと?」
「む~ん、もちろん、それだけじゃないですよ?」
露骨に不審な視線を向けるさやかに、咲夜は慌てて両手を振った。
「さやかさんなら、きっと使いこなせると思ったんです。だからお願いしたんです」
「……そう」
「私、誰彼構わず危ないものを渡すほど、無責任じゃないですよ?」
その言葉に嘘は感じられなかった。
咲夜は、本気でそう信じているのである。
それからしばらくして――
さやかが帰った後、入れ替わりに来客があった。
研究室のドアが静かに開き、カツカツと軽い足音が響く。
「こんにちは、咲夜」
灯花である。
「何? 灯花さん、久しぶりじゃないですか」
嬉しそうな咲夜とは対照的に、灯花の方は心なしか、やや疲れたような顔をしていた。
その瞳の奥には、どこか退屈さと過密な日程への不満が滲んでいる。
「ちょっと後処理に忙しくしていたもんで」
「ああ、寝返っちゃった人がいたんですっけ?」
「そんなこともあるよ」
灯花は咲夜の近くまでくると、ぴょこっとパソコンの画面をのぞき込む。
光るモニターには、さやかのソウルジェムの波形データと金縁グリーフシードの干渉理論値が敷き詰められている。
「それは?」
「ああ、さやかさんの強化を図ってて。灯花さんに倣って、私も人造使い魔や人造グリーフシードの研究、始めたんですよね」
さも当たり前のようにモニターを覗き込んだ灯花を気にすることもなく、咲夜は得意そうな顔をして胸を張った。
そんな咲夜を見て、灯花の方もいつもの柔らかい笑顔を浮かべる。
「ふーん。随分、彼女がお気に入りだね。わたくしは、あまり魅力を感じないけどにゃー」
「そう? でも、私にとっては救世主……になるかもしれない貴重な人間なんです」
「へえ~……」
これから咲夜が引き起こすであろう事態を期待しているのか、灯花の幼い口元に笑みが浮かんだ。
その時である。
ブゥゥゥゥゥン……
低い羽音が研究室の空気を震わせた。
「わっ! ハチ!」
思わず灯花が身をかがめ、近くのソファの陰に隠れる。
しかし、咲夜の方は涼しい顔で言った。
「大丈夫ですよ、灯花さん。……ほら」
そう言って立てた咲夜の人差し指に、迷いなく蜂がとまる。
いや、それはただの蜂ではなかった。
あの時、まどかやほむらを見つめていた、頭部が眼球になった蜂であった。
頭部にあるべき触角や口器はなく、代わりに生々しい人間の眼球が一つ、ギチギチと音を立てそうな精度で鎮座している不気味な造形物だった。
「それが……さっき言ってた人造使い魔?」
まだ警戒した様子で身を縮こまらせたまま、灯花がソファの陰から顔を出して尋ねた。
「ええ。攻撃力はただの蜂と大差ないですが、色々と便利ですよ。例えば、見てきたものを私に共有してくれたりとか、ね」
そう語る咲夜の指先で、蜂の使い魔は愛おし気に主人の指の上を這い回っていた。
その動きは、まるで主人の体温を確かめるようだった。
☆
校舎を出た後も、まどかはあてもなく街を歩き回っていた。
夕闇が迫る見滝原の街並みを見渡しながら、何度も携帯電話を開く。
だが、さやかからの返信は一度もない。
見滝原の初夏は、かなり暑い。
元々内陸部で暑さがこもりやすいところへ、さらに温められた南風が入ってくるからだ。
それは夕方でも変わらなかったが、今のまどかには、その暑さも意識の外であった。
(さやかちゃん……。どこにいるの……?)
焦りと不安で胸が潰れそうになりながら、商店街の外れ、寂れた路地裏へと差し掛かった時だった。
裏通りの影から二人の少女が歩いてくるのに気づいて足を止める。
プレッツェル菓子を口に咥えた赤い髪の少女と、その隣でどこか動きの硬い、痛みに耐えるような少女。
杏子と瀬利だ。
まどかはハッと息を呑んだ。
瀬利の服の隙間から、痛々しい包帯の白が見えたからだ。
「あ……杏子ちゃん? それに、瀬利ちゃん……?」
呼びかけられた二人が足を止めた。
「……ん? お前、さやかの横にいた奴か。つーか……なんであたしらの名前、知ってんだ?」
「それは……あの時、名前を聞いてたから……」
杏子は呆れたように眉を上げた。
「おいおい……あの一回しか話してねぇのに、名前覚えてんのかよ」
毒気を抜かれたように鼻で笑う杏子の横で、瀬利が鋭い視線をまどかに向けた。
まどかの目は、どうしても瀬利の負った傷から離れない。
「瀬利ちゃん……もしかして、その傷……」
瀬利は答えない。
しかし、その沈黙こそが、まどかが抱いていた不安が正しいものであることを物語っていた。
「その傷、さやかちゃんが……」
瀬利はしばらく押し黙っていたが、やがて、舌打ちして言った。
「ちっ……。ああ、お察しの通りだよ」
「そんな……」
本当に、さやかちゃんが――
あの日、自分を守ってくれた優しいさやかの姿と、瀬利をここまで傷つけたという事実が、どうしても結び付かなかった。
まどかは思わず崩れ落ちそうになる。
そんなまどかを見やり、ふと杏子が呟いた。
「なあ瀬利、こいつ利用するか?」
「えっ?」
杏子の言葉に身を固くするまどかだったが、瀬利はそれを制止した。
「冗談じゃねぇ。あいつに勝つなら真正面からだ」
「……はいはい。分かってるって」
杏子は肩をすくめ、苦笑いを浮かべる。
「そんな顔すんな。あたしだって、人質なんて趣味じゃねぇよ」
杏子の方も本気でまどかに危害をくわえようとは思っていなかったようで、ため息をつきながら頭を掻いた。
「お前……まどかっつったか?」
「う、うん」
瀬利は正面からまどかを見据えると、言った。
「さやかに会ったら伝えろ。『やられっ放しは性に合わねえ。次こそは決着付けてやる』ってな」
「そんな……っ! やめてよ、二人とも! 話し合えば、きっと……!」
「そうはいかねえ」
「っ……!」
瀬利の視線にまどかが押し黙る。
そこには、有無を言わさぬ迫力があった。
「あたしは捻くれ者かも知れねえが、あたしは剣士だ。白黒ついてねえのは我慢出来ねえんだよ」
「でも……」
「別に命のやり取りまでしようってんじゃねえ。コイツはどうだか知らねえが、少なくとも、あたしはさやかの奴とケリをつけてぇだけだ。言ってみりゃ、試合の延長みてぇなもんよ。勝っても負けても、それで終いにする」
ちらりと杏子の方を振り返って、瀬利が静かに言った。
「……けっ、勝手に言ってろ。あたしは最初から叩きのめす気満々だけどな」
杏子はそう吐き捨てると、咥えていたプレッツェルを噛み砕いた。
そして、立ち尽くすまどかの方へ視線を向ける。
その瞳には、からかうような色はなく、どこか冷ややかな現実だけが宿っていた。
「そういうこった。あいつはもう、お前が『話し合い』なんてぬるい言葉で引き止められる場所にいねえよ。怪我したくなかったら、お前は大人しく家に帰りな」
「あ……」
すれ違いざま、杏子が「ポン」とまどかの肩を軽く叩く。
引き留めようと伸ばしかけたまどかの手は、むなしく空を切った。
「行くぞ、杏子。ぐずぐずしていると、あいつを見失う」
「へいへい。無理すんなよ、怪我人」
二人の足音が、夕闇に包まれ始めた路地裏に遠ざかっていく。
瀬利の背中には決意が、杏子の背中には冷めた覚悟が滲んでいた。
二人の姿が見えなくなった後も、まどかはその場にただ一人、立ち尽くしていた。
日が落ちてもなお熱気を孕んだ風が、路地を吹き抜けていく。
(さやかちゃん……。どうして……どうしてこんなことになっちゃうの……?)
手の中の携帯電話は、相変わらず冷たい無機質な感触しか返してくれない。
夕陽が完全に落ち、影が街を呑み込んでいく中で、まどかはギュッと携帯を握りしめることしかできなかった。
☆
荒れた草原のような結界の中で、さやかは魔女と向き合っていた。
それは巨大なバイオリンの背部から、キリギリスと人間を掛け合わせたような上半身が生えた姿をしていた。
キリギリスの魔女と呼ばれる魔女だった。
(バイオリン、か……)
ふと、恭介のことを思い出し、さやかはフッと笑う。
恭介の治療の為に願いを使ったさやかだったが、現在は、不思議と彼に対する感情が落ち着いていた。
別に彼に対する恋愛感情が冷めてしまったわけではない。
だが、今のさやかの感情のベクトルは、『魔法少女としてより強くなる』という方向に向いていたのだ。
さやかが剣を構えると、周囲の草むらがガサガサと不気味な音を立てて揺れた。
現れたのは、人間ほどの大きさを誇る巨大なアリの群れ――魔女の手下たちだ。
無数の黒い影が、甲高い顎の音を鳴らしながら一斉に襲いかかってくる。
以前の自分なら、この数に気圧されていたかもしれない。
だが、今のさやかには恐れなど微塵もなかった。
銀閃が奔る。
ザシュッ! ザシャァァァァァァァァッ!
一閃、二閃――すれ違いざまに切り裂かれた巨大アリたちが、叫びをあげる暇もなく次々と黒い霧となって弾け飛んだ。
「強い……! あたし、こんなに強いんだ……!!」
群がる手下を一瞬で全滅させたさやかに向けて、キリギリスの魔女が手に持った巨大な弓を胴体の弦へと滑らせた。
ギィィィィィィンッ!
鼓膜を破壊せんばかりの凄まじい不協和音。
空間そのものを歪めるような指向性音波の衝撃が、さやかを飲み込もうと迫る。
恭介の奏でる繊細で美しいバイオリンとは似ても似つかない、おぞましいノイズ。
「ぐっ……!」
音の塊がさやかの身体を吹き飛ばす。
地面を転がりながら、さやかは歯を食いしばった。
「くっ……! 近づけない……!」
剣を杖代わりにして立ち上がりながら、さやかは懐から、例の金縁グリーフシードを取り出した。
「でも……これがあれば……!」
言うなり、金縁グリーフシードをソウルジェムへと押し当てる。
その瞬間、以前のように、さやかの身体から痛みも疲労も消え失せ、身体が軽くなる感覚が全身を満たしていた。
「はぁぁぁぁぁぁぁっ!」
地面を蹴った瞬間、視界が加速する。
金縁のグリーフシードから溢れ出す圧倒的な魔力が、さやかの脚力と腕力を爆発的に跳ね上げていた。
ズドォォォォォォン!
空気そのものが爆発したかのような衝撃波が、さやかを再び正面から打ち抜いた。
「ぐっ……!」
身体が後方へ弾き飛ばされる。
だが、今度は違った。
さやかは空中で身を捻り、そのまま結界の壁を蹴る。
「この程度っ!」
今までなら到底届かなかった距離を、一瞬で詰める。
「そこだぁっ!」
剣が閃き、バイオリンの胴体を斬り裂いた。
「こんなに……身体が軽い!」
剣を振るう。
踏み込む。
跳躍する。
どれも以前の自分とは比べ物にならないほど速い。
「これなら……!」
キリギリスの魔女がバイオリンの弦を弾く。
ギィィィィィィィィンッ!
凄まじい音波が周囲の空気を震わせた。
「効くかぁっ!」
さやかは真正面から踏み込んだ。
そのまま肉眼では追えないほどの踏み込みで魔女の懐へと肉薄する。
驚愕に目を見開く魔女の顔面に、さやかは目にもとまらぬ速さで剣を振り下ろし、一刀のもとにその巨体を真っ二つに引き裂いた。
どす黒い体液と魔力が爆散し、結界が内側から崩壊していく。
「……やった」
さやかは荒い息を吐きながら、剣を下ろした。
「やっぱり……強い」
その顔には、ほんの少しだけ笑みが浮かぶ。
――その瞬間だった。
「……っ!」
胸の奥に、鋭い痛みが走った。
「あ……?」
反射的に胸元を押さえる。
「……なんだ、これ……」
痛みはすぐに引いた。
けれど、完全に消えたわけではない。
心臓の奥に、何かが引っかかっているような感覚だけが残っていた。
そこへ、聞きなれた声が響く。
「……さやかちゃん?」
「!?」
さやかが声のした方を向くと、そこにいたのは彼女が思っていた通りの人物だった。
昨日、自分が突き放してしまった幼馴染。
さやかは一瞬だけまどかの方を向く。
だが、
ズキッ!
「うっ!」
再度、心臓に針で刺されたような痛みが走り、さやかは顔をゆがめて胸を抑えた。
そのまままどかに背を向けると、さやかはその場から逃げるように立ち去って行った。
どうすることも出来ず、まどかは暗闇の中にぽつんと取り残されてしまうのだった。
to be continude...