12歳の頃はじめて油絵の具と出会って以来、絵の具の緑色が嫌いで、特に花や植物を描くとか森や風景を描いた油絵も嫌いで馴染めないというか
あるとき植物と身体という実技課題があり、制作があまりにも苦痛で教授に人体はともかく緑色は好きじゃないと言い切った記憶がある。
油絵の具で描くがゆえゴムの葉のような質感と油の塊である人体のコントラストがたまらなく嫌だった。他の学生も積極的に緑で表現しようと試みている人がいなかったように感じる。森に佇む少女などは実際絵になるし映画や写真作品、イラストレーションなどは多く存在する。ただ油絵の具で描かれた植物の異質感がたまらなく違和感を憶えるのである。
この異質感についての答えは出ている。
それは濡れと乾きの問題だ
実際に森に佇み周囲を散策するとわかるが、葉の表面は乾いており木の幹も乾いている。土の表面も乾いており枯れ草も乾いている。森の中に濡れているものはほとんどない。雨の日も同様に森の中に入り込むと、ほとんどの雨は覆われた木々の葉によって森の中までは到達することがなく落ち葉で覆われた地表も木々の幹も葉の裏も乾いている。葉の表面に落ちる雨の雫も反発し流れ落ち濡れているというものではない。葉が濡れ色になるためには南国の広葉樹お除く日本の森林では、鍋で熱湯によって茹でる以外に自然界ではほとんど存在しないかと思われる。
油絵の具は濡れ絵の具である。
油絵の具に使われるのは顔料と定着材としての油。顔料と練り合わせられるリンシードオイルは空気中の酸素と重合し堅牢な皮膜を作る。利点として濡れた状態にある絵の具が乾燥しても油の屈折率から濡れた皮膜が残り殆ど乾燥による変色を計算しなくてよい。日本画などで使われる膠を定着材とすると顔料そのものが発色するため別紙に試し書きしながら乾燥後の発色を計算しながら作業を進める必要がある。また顔料そのものがメデュームの皮膜に覆われるため耐水性、堅牢性があり盛り上げて描くことも可能にし、油の酸化重合による乾燥の遅延時間はグラデーションを多用する西洋画技法に向いているといえる。
問題はこの油による濡れという発色の特徴である。
日本画の技法で花や葉を描くとその発色の素晴らしさに感動する。水彩絵の具もアラビコガムを定着材に使っているので乾き色に仕上がるが、顔料特に岩絵の具の持つ発色の力強さにはかなわない。緑の色顔料だけでも群緑、松葉緑青、淡口焼緑青、濃口焼緑青、柳葉裏、白翠末、緑瑪瑙、碧玉、黄碧玉、杉葉色など種類が多く日本人の緑色の感覚に合致している。人種による色彩感覚の差は別途、後述するが日本人がおよそ文献が残っている移行でも日本の風土で1200年試行錯誤してきた色合いは素晴らしい以外の言葉が見つからず感歎とする。油絵であっても日本画であっても顔料そのものに違いはない。定着するための材によって濡れた顔料になるか乾いた顔料になるかの違いが生まれる。
少なくとも日本の風土に油絵の具の重厚な発色は似合わない。そう思わずを得ない程、花や植物を描いて油絵の緑の美しさを見たことがない。唯一美しいとするならばジョン・エヴァレット・ミレイ作の「オフィーリア」などあるが大量の水をかいて濡れを演出したためとも言える。
油絵の具ばかりを扱うと塗れと乾きという問題に着目しないが表現手段として重要な問題である。
先の授業で緑は嫌いだといった教授は「作品を見るといっても結局のところ顔料を見ている。顔料そのものが感動的で抵抗力を持った存在でなければその上の表現も陳腐なものになる」といってられた。また日本画は水の仕事である。水の速度で作業速度は決定し水の速度で画面上の顔料は流れて行く。それらが乾いて定着したときより日本の気候風土に合致した作品が生まれる。油絵の具を否定しているのではなく、そのものの限界も知る必要もある。そのとき日本人の始祖が極めてきた日本画技法がこの国にあることに心から感謝したい。
今回は塗れと乾きについて述べた。水と油の違いによる仕事や仕事の速度については後述したいと思う。