前回の美術の意義では人類の持つ破壊と創造の破壊の部分について触れた
それでは人類にとってこの破壊と創造の意義とはなにか?
定義「生物学的に種の繁栄のために繰り返される行為」
人間は危機意識を持ち続け、常に擡頭する種を滅ぼしてきた。これまで被食者となる害獣はもちろん、あまたの敵、ウイルスから天災に至るまで人類に危害を及ぼすものはことごとく駆逐し現在の繁栄をみた。現代社会にいて女性や子供が夜間の帰宅をすることに何の危害もない。日本において狼は絶滅し危害をもたらす熊は害獣として駆除されている。最近では野犬の歩く姿すら見る機会がない。武器を持たない生身の人間であれば到底これらの狼や熊といった猛獣と対峙することはできないはずであるが、一人がやられてもわれわれは集団で組織的に戦う術をもっている。
我々人類は強い。およそ歯向かう的は集団で返り討ちにしてきた。それはこの人類の種としての維持機能である。過剰な危機意識と被害を受けたときに行う絶対敵攻撃性の恩恵である。今後、未来永劫続いて行くであろうし、およそ戦争とは関係のない平和な国であっても危機的な討論番組やニュースメディアはもてはやされ、危機的な状況から脱出する映画ばかりが消費され続けている。これは我々人類が存続するために身につけた機能としかいえない。必要悪というべきか、将来宇宙人とでも戦うための備えというべきなのか、機能として認めざるを得ない以上、これを否定するつもりは毛頭ない。
文化はこの対極にある。
破壊と創造とは全く逆のベクトルに存在する。
種の存続の機能としての攻撃性、未知への危機意識とは逆のベクトルである種の繁栄のための「創造」 我々は人類は繁栄のために愛を紡ぎ、表現し、伝え、住みよい社会を創造してきた。一言で言い換えれば、それらをデザインしてきた。そしてどれだけ繁栄のために工夫し、デザインしてきたであろう。世界は愛と文化に満ちあふれている。
創造とは幸せの原型であるかも知れない。
安易に危機意識を煽るような討論を繰り返すより、町中に花を植えた方が効果的である。収穫を祝う感謝祭や繁栄を祝する結婚式も素晴らしい。それは創造の力である。詩や音楽を作ったり演奏して歌ったり、絵を描いたり、ものを作ったり、料理を工夫したり、家や道路や橋を作ったり、町や暮らしをデザインしたり、日常的に行われているあらゆる工夫、創造の行為はすべて破壊的衝動を相殺する力である。この創造の行為は誰に否定される物であってはならない。ちいさな子供が飾るためにとってきた花も、飾るために拾ってきたビンもこの世界を支える立派な創造の力である。これに必要なのは専門家でも評論家でもなく、単純にこの行為に対して感動できる心を我々が持つことである。
ジョンレノンのイマジンの歌詞にイマジネーションというワードについて考察している。
創造とは物を作らなければ創造にならないのか?創造しなければ幸せは訪れないのか?
全ての物事はイマジネーションから始まる。全ての創造的な行為は人々の心の中のイメージから始まる。
行為に対する結果をイメージすることは重要で幸せな結果をイメージすることが創造の始まりといえる。
自分の主義主張を通すために暴力に訴えたとしても幸せな結末は望めない。これはイマジネーションの欠如である。全ての破壊的行為はイマジネーションの欠如によるものと考えてもいいだろう。
我々の心は常に種の繁栄のために幸せを求めている。その機能として結果をイメージするイマジネーションと幸せをデザインする機能を持っているのである。
生まれたときから愛のない破壊の渦中にある子供達に幸せをイメージすることは不可能かも知れない。それでも人としていくらかの機能はあると信じたい。危機意識は商業的にも売れる。しかし、それと対極のものを創造し発信することは、幸せを知る人間にとって重要な行為である。
幸せな行為に感動できる心はこの世界を支えていることを理解し尊重すべきであると考える。
そして、それらの行為は全ての人類が創造できる行為なのである。