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くろすけのしっぽ

アカリ・リュウ というネームで作品を制作しています。

 明度と彩度について
 「人間の目は一様に同じようにみえていて世界を感じているのだろうか」

 思春期の青年が抱く感情のようであるが、今回はこの問題について取り上げる。

 私の描く絵は原色を多様する。ブログのタイトルバックの絵もコバルトブルーとカドニュームレッドという目に刺さるような絵の具をほぼ原色で使っている。影も明度を落とさず色相環を20度程ずらした色(黄色ならピンク、ブルーならライムグリーン)で色彩によって陰影を表現している。これは日本のアニメーションでも多用される手法であるが、海外の作家が使うことは殆どない手法である。これについては各界から賛否両論がある。
 以前作品をコンペなり公募展に出品したとき好評会で所謂大先生と言われる大御所に「君は混色を憶えなさい」と言われた記憶がある。イエローオーカーを中心としたミディアムパレットを多用する先生である。原色を真剣に扱ったことないのであろうか 「参ったな」 技術的な議論に達する前の段階である。閉口するばかりであった。

 現在私は北海道で活動している。出身は九州の方で関東の画家の方とも交流がある。この中で環境の差を考えるとかなり緯度の差がある。この緯度の差で明度と彩度の好みの差が明確に違うのである。

 北欧の古い建築物に入ると薄暗く石造りで窓は高く狭い。室内の大半は暗く夜も煌煌と電燈をともしたりしない。およそバウハウス以前の建築物は殆どがそうである。また印象派以前の西洋絵画も暗く一点にのみスポットのあたるように描かれた作品が多い。こんな薄暗い部屋にと思うが、彼らにとってはそれが心地いいのである。彼らは明度差に敏感で形を明度で理解している。逆に南米やアジアでも華南より南の方、国内でも九州や沖縄の方で好まれるデザインの色彩の強烈さを感じることがある。町並みは原色の看板が並びラスターカラーやビビットな色の服装。原色に埋もれた店舗商品の山。同じ目でこの差はなんだろう。また、以前、北米の方がこられて、もてなしで着物の着付けと写真撮影に行ったことがある。参加者の誰しもが薄いブルーや薄いピンクの地味な着物を喜んで試着されていた。私は折角の京友禅であるし柄のきれいな着物を選べばいいのにと思っていたが、薄い色の着物がすばらしデザインであると絶賛されていた。少し考えてみたが、これは個人的な好みの問題ではないようである。

 これについて、高緯度に住む人々は光量の少ない世界にいること、また狩猟や牧畜といった生活基盤で繁栄してきたこと、横穴から石作り住居生活を基盤としていたこと、などから考えると暗闇に強く、明度を繊細に感じ形を認識する。逆に低緯度の光量が多い地域に住む人は明度で形を捉えるよりも彩度で十分に判別できるため色面で形を判断する傾向が強い点がある。人間は暗闇では殆ど色の見分けが効かなくなる。これは目の細胞に色を認識する錐体細胞と微細な光を感知する桿体細胞の使われ方に由来する。狩猟動物の生態を考え、薄明薄暮時期に活動する動物を狩るためには形は桿体細胞を使い形を認識する必要がある。また十分な光量がないと錐体細胞は働かないため、色に対して明度差を利用して判別できる機能が必要になる。逆に光量の十分にある低緯度の地域であると、色彩によって形を鑑別することが容易にでき、より情報量の多い錐体細胞を積極的に使った判別が有利になる。カメラでISOとFの関係と似ている。

 つまり北国に住む人たちは明度で形を判別し、南国に住む人たちは彩度で形を判断している。

 これは作品にも明確に現れ、ピクサーアニメと日本の作品を比較すると一目瞭然であるが『メリダとおそろしの森』は殆ど陰影で形を表現し、色彩は色面ではなく、あくまで陰影と一環でグラデーションで扱われる。日本人には違和感を感じるかもしれないが、2時間も見ていると馴れてしまい、逆に日本の作品を見ると色彩が強烈でどっきりする。ドリームワークスの『マダガスカル』も子供向け動物の映画なのに夜のシーンが多く、殆どが陰影によって形を表現している。日本の作品はドラマであっても赤い傘を色面として移動させてみたり色彩のコントラストや色面の構成を丁寧に作っている。これは前述した『マダガスカル』に馴れてしまった目で見ると「なんでこんなトーンを配置するんだ?」と違和感を感じてしまう程である。

 陰影表現については、日本でも15世紀には西洋絵画が輸入されている。しかし狩野派の絵師もそれを見て影響を受けたということもなく、葛飾北斎であっても試し書き程度で継続していない。色面構成のダイナミックな作品やデザインとも取れるような平面的な作品が日本の絵の主流である。現代の日本のアニメーションでも色面構成を重視しており、金髪の髪の毛影の部分は、明度を落とした金色ではなく彩度を抑えた金色やピンクを、また肌色の影の部分は、明度を落とした肌色ではなく、明るいブリリアントピンクなどを用いて全体を明るく描いている。

 「なぜ日本人は明度傾向に走らなかったのか?」
 仲のいい美術研究家と話したことがある。
 「単純に日本人に影は汚れてみえるからでしょ」
 
 あっけない結論である。ミッキー顎に描かれた黒い影がヒゲにみえてしまうのである。実際、国内のミッキーマウスのイラストには陰影が付けてないが海外のMickeyのイラストには深い陰影が書き込まれている。日本人は陰影で形を認識するよりも、輪郭で形を認識することが得意な種族でそれは数千年変わっていないようである。

 もちろん陰影が不得意であったり、形を輪郭で認識することを非議しない。ことさら日本のもつ輪郭線の文化、日本画において針金、鉄線描という技法。線一本で、形や奥行き重さや質感さえ表現してしまう技法。さらに近年のアニメーションでは線描で立体や奥行きを見事に表現している。村上隆氏はこの現象をスーパーフラットとして展開されているが、これは我々日本人の持つ高度な文化であり、西洋のデザイナーや建築家、印象派画家に与えたカルチャーショックは、文化そのもを変える程のものであったであろう。

 「陰影に強い人は形に強く、色に強い人は色面構成に強い。また逆は弱点である」

 美大の研究室でもよく言われる言葉であるが、どういうことだろう?
 これは、日本が縦に長い地域特性を持ち、前述した明度で形を判断する人と、色面で形を判別している人が同居しているということである。以前、カルチャースクールの講師に絵を見せたとき「陰影を付けて表現した方がいい」といわれ、わざわざ鉛筆で形を描いた後に指で擦って陰影表現の手本なるものを見せてくれた。好意を否定するつもりがないが、色彩研究して陰影を日本人の持つ感性的な色に置き換えて表現している身としては辛いものがあった。
 色々なタイプの描き手に会って感じるのだが、色彩で形を表現する行為は、陰影で形を認識している人に理解できない世界のようである。逆に、関西の彫刻科の教授がデッサンはいらない。クロッキーの線を見ただけで形態把握の才能はわかると言う方もおられた。関東以南ではクロッキーの線をもの凄く大切に扱う場面を多く見てきた。日本画でも同様に線に全神経を置き換える。

 先の講師先生は、日本画の展覧会の後にフォーブ以降の西洋絵画展覧会があったとき、鏑木清方や上村松園よりもキスリングなどを見た方が勉強になると言ってられて、なるほどと得心した。このかたは形を陰影として見ている。しかし、上村松園の線については絹本に書かれた一本の線で、あれだけ豊かな表現をできる人間は今後出てこないであろうと言う程、精緻でこの世のものとは思えない線である。しかし、これは色面で形を捉えている者にしかわからない世界なのであろうか、この点は疑問が残る。

 結論としてまとめると、明度と彩度は絶対値で判断している訳ではなく、個々の相対値として認識している。そればかりか、形態を陰影によって、あるいは色面によって認識している違いがある。それは緯度による変化と比例する。人間の目の構造や生活環境、光量の問題で分化してきたと考えられる。それらは文化であるり、どちらも明度や色面に特化した優れた作品を生み続けている。相容れない意見の相違は、この齟齬にあると言っていい。また、今後お互いに理解できれば、作品の良さや、地域展開を考慮した作品を生み出すことができると考える。

 今回は、明度と彩度について書いた。この地域性については、緯度だけではなく、細分化して書いていく必要があると考えている。私自身は線描によるフラットな表現を研究している。相容れない世界との交流は大変であるが、これは、このような種の分化の過程の問題もあるため、自分の感性を信じて追求して行く方を強く薦める。それは、表現とは他人の意見によって変えられた世界ではなく、自分が信じて追求したその先にしか真理がないためである。


 次回はサブカルと毒について触れてみようと思う