命題「絵画に計画的な構図は必要であるだろうか?」
今回は構図の問題である。
大学の研究室では流石に触れることが少ない構図の問題であるが、受験生を対象とした予備校や美術研究所、カルチャーセンター、公募展の評論会などでは盛んに「構図が悪い」だの「ここをこう描いたほうが構図が良い」などと指導がされている。また写真雑誌の投稿コーナーでも構図についての論評が盛んである。問題は作品の意図や表現性ではなく「構図」である。
これについて違和感いうか、時に嫌悪感を覚えることがある。
とある会場で若手作家の指導をされたとということで指導前の写真と指導後の作品を見せてもらった。シンメトリーで動きのない構図がダイナミックな流麗な構図に変貌していたのである。作家と話をすると随分と芯のある真っ直ぐな性格をしていて、抑えきれないパワーを画面に吐き出しているタイプの作家であった。幼少期から青年期にかけての噴出する世界を具象化して描いている。そのためか下図ではシンメトリーな構図で、主人公が阿修羅のような形相でこちらを見つめている。その周囲に曼荼羅らのようなパーツが配置され、意味を持つ絵になっていた。しかし、指導後、修正された絵は流れるような構図に置き換えられ、導線をしっかりと導くようにパーツも配置し直されていた。これは絵画としては正解であり公募展の審査も後者の方が合格しやすいだろう。しかし、何か引っかかる感じがした。
それは何だろうか?
この作品にぶつけられた彼女の揺るぎないエネルギーはメッセージ性をより強くするためにシンメトリーに配置されたと考える。初期の絵は未成熟ながら青年期のアイデンティティとして考えさせらる物があった。しかし、後者は構図がダイナミックで絵図らの良い絵に変更されていた。そのためか色彩もビビットで波長の揃わない攻撃的なものから一般的な中間色へ、描画も粗暴で野生的なものから丁寧で光や空間を意識した表現になっていた。
確かに絵画としての技術は上がっている。しかし長いこと絵画を鑑賞されている読者ならこれじゃないと感じるだろう。
絵画に構図は必要かという問いを冒頭にしたが、筆者自身は10代や20代の若い頃は、これに頼り切って描いていた。仕事も含め、工学を学び、数値のみで設計していく世界にどっぷり嵌り、理想の数式をマセマティカという演算ソフトを使ってシュミレートしすると恐ろしいほど美しいグラフが出現する。この立体や平面上の構図は思想の根幹になり、人工物や自然界も含め最も無駄のない構成こそが美を感じる原理と信じていた。そのため絵画においても下図の前にキャンバスに幾何学を基にした無数の構造線を引き、それを頼りに制作した。その効果として完成作の一枚として失敗作がない、一定の壁面空間を制圧できる絵画をコンスタントに制作することができるのである。このことは言い換えれば鑑賞者は、表面に書かれた作品である表現を見ているのではなく、全てのラインを構成する構造線を見ているのである。上手く行くはずである。だが、何か違和感を感じ始め辞めてしまった。そのまま、幾何学的に計算された構造線を持つ絵画を研究し続けていても良かったのかもしれない。年齢を重ね、今頃は構図の講釈を述べていたかもしれない。しかし、当時それらの作品を並べた個展で迫り来る構造線を前に不思議な違和感を覚えたのは確かである。
「構図線について」
構図線を下図に取り入れた絵画作成技法は古くからある。古くはギリシャ、エジプトを代表する古代壁画にも見られ、特にルネサンス以降はビジネスとして絵画を工房で制作されるようになると顕著になる。事業として納期期が決まり予算が決まれば失敗は許されない。そういった場合、構造的に優れた構図が基になり、幾何学をベースに繰り返し制作すれば、構造的な失敗は避けることができる。宗教的な数学の意味も含め、当時の宝石を原料とするような高価な材料を用いる絵画制作においては、必ず成功をもたらす構図が研究されたことは自明の理である。
閑話休題、「我々の日本美術で構図はどうであったか?」
日本では前回述べたように陰影表現より形や質感を重視した絵画が発展したため、構図は直線や曲線を主体とした幾何学ではなく、地と図の関係に重きをおいた構図が発達した。簡潔に言うと東洋には書道における地と図の関係があり、また禅宗にもあげられる空白も空間も存在として認める哲学が影響していると考えられる。そのため西洋絵画と比較し、背景を遠近ではなく存在として扱った表現が発達した。その後、交通インフラの発達によって西洋美術と東洋美術の流入により構図そのものの考え方も変化する。セザンヌによる実験的な空間の解体はキュビズム、フォービズムに発展し、ダダ以降は先の商業的な構図は否定破壊されていく。同時に抽象という新しい空間概念が生まれる。人間的な空間作為のない空間の誕生である。物理学においてM理論などで空間概念が急転したことも影響された。また、日本を代表する現代芸術におけるスーパーフラットという概念も日本絵画の空間理論をベースにしている。
「作家は構図を学ぶ必要があるのだろうか?」
デッサン学の講義であった話しである。研究のために美術とは関係のない学部の学生にコピー用紙を渡し「美しいと思うところで線を引いて分割してください」という命題を与え、10年程サンプリングした結果、殆どの学生が幾何学的な理想線に近い線を描くというのある。これについては出典を詳細に調べてないので引用できないが、大変興味深い話である。と言うのも我々が自然に目につくもの全てが幾何学を準拠したデザインであり、鉄塔ひとつにしても、鉄骨強度が最適で最大に力を発揮できるトラス構造が採用されている。無駄に強度を持たせるために部材を太くしたり、あるいは力学的な構造設計を無視して適当に組まれた構造物は頑丈であっても美しく見えない。我々が目にするビルや橋と言った建造物、交通機関、コップや食器、家電製品、このインターネットのプログラムやコンテンツもそうであるように、あらゆる無駄をなくし、洗練された美しい構造が世の中に溢れている。それらは自然界もそうであり、幾何学の基になった植物や河川、山々までもがそうであるように、世界は完成された構図で満ちあふれていると言える。その中に暮らす我々は無意識のうちに最適な構図を見て学び、感覚として持つ。美術に無関心な学生が最適な構図線を描けることは想像しにくいことではなく、むしろ自然であろう。つまり美的構図は意識すれば誰でも使える感覚であると言える。
「王道コードと日本の音楽」
少し話しを変えて音楽の話しをする。音楽と絵画を単純に置き換えることは出来ないが、音階を明暗、音色を色彩と考えると構図はコード(chard)は言えないだろうか?
音楽は美術とは違い、数的で法則的な面をもち、共振し合う音、1オクターブを12分割し、その中の倍音を基に和音を構成し音楽を創っていく。絵画の場合、無意識に絵の具を選び、思うがままペインティングしたとしてもそれなりの作品になるかもしれないし、失敗したとしても鑑賞できないような物にはならないが、音楽は好きなチューニングで適当に演奏してもノイズにしかならず、一般には聴くに耐えない音楽となる。音楽は思っている以上に感情をぶつけた創作物ではなく、楽理を基に計算された結果の産物なのである。
以前作曲をやっていた頃、ヒットソングの傾向を探すべく過去さかのぼって50選とか100選とかピックアップし、コード進行や歌詞について研究した。その結果、特異点があった。それは1970年代のフォークブームから現在までヒットソングに使われる王道コードなるものである。ヒットソングのサビは次に示すコード| FM7 | G7 | Em7 | Am |(IV△7-V7-IIIm7-VIm)によって構成されている場合が多い。その他、Aメロ、Bメロにも使えるカノン進行| C | G | Am | Em | F | C | F | G |(I-V-VIm-IIIm-IV-I-IV-V)がある。これらのコード進行がどの曲に使われたかはgooglで「王道コード」検索してもらえば誰でも知っているミリオンヒットがいくらでも出てくる。また音楽業界もこのことは承知しており1990年から2000年頃にかけては王道コードのみで次々に新曲が生み出された。誰でも魔法のコード進行を使えばヒットソングが書けるのである。しかし、印象には残らない。アルバムをリリースしても王道コードを使う楽曲が凄すぎて他のオリジナルソングが陳腐化する。おなじコードを使って量産すると飽きられやすいなど問題点もある。メジャーレーベルのトップセールスをするバンドでもアルバム収録曲の2曲程度に抑えていた。ヒットソングは誰でも書ける。しかし用法を間違えば一発で終わる。主体的な音楽活動をするグループにはその心得があった。しかし、2000年代、歌い手をフルプロデュース時代が到来し、業界全体がこのコードを使って作曲し次々に新ユニットを発表した。その結果JーPOP全体が陳腐化したことも事実である。
筆者もガルポプとかJーPOPを主体に活動していたので、楽器を弾くとそのスジのスケールが手癖になっていて新しい音楽創作の妨げになる。手癖だけでなく脳による思考過程すら束縛されているのではないかと思える程である。わざとピッチやチューニングを変えたり、あるいはチューニングそのものをデタラメにしても、残念ながらその固定されたスケールが出て来るのである。思春期の頃に恩師がクリムゾンやクリームのアルバムを貸してくれた。それまでポップソングや商業的なロックが全てだった私自身の音楽概念が根底から変えられた。同時期にマーク・ロスコの絵画を見たときに同じような音が聞こえ鳥肌がたったことを覚えている。しかし、長年の歳月によってその感動は薄れ、刷り込まれた手法が新たなる創作を邪魔するのである。
「結論」
ここまで書いて構図に対して導かれる結論であるが、それは読者に委ねる。筆者としては構図は意識する必要があるし、事業や商業的なデザインには欠かせない手法であるため、そのような分野では大いに研究されるべきである。しかし、表現において何よりも優先すべきかどうか?表現主体に考えれば違う手段もあるのかも知れない。
「あとがき」
若干脱線するが、先日BELLRING少女ハートのLIVEに行ったときのこと。このグループは、先に説明した王道構図、王道構成を否定した音楽である。キッチリと作りあげられた音楽が氾濫する日本において、彼女たちの音楽はオアシスのように感じる。つたないキーで歌われる楽曲は彼女たちの世界を映し、それは決してプリミティブや稚拙ではない。あるいは作られた安っぽい嘘でもない。刹那げな少女達のリアリティーを感じる。都会を生きるカラスと都会の雑踏のなかを生きる少女達の心象がオーバーラップして世界観を構築する。夜明けの歌舞伎町を徘徊している虚しさにている。その感じ方は、その人の生きた人生によって変貌するであろうし、それだけ想像の幅を持ったコンテンツである。
この混沌とした空間に決められた構成や演出はない。全てが需要者側の感性に委ねられている。私は、快楽的な彼女たちのファンタジーのなかに、少し人生の苦い思い出をイメージした。しかし時が経つにつれ、楽しく刹那な彼女たちのおとぎ話が私の心傷を埋めて行ったのである。