米澤穂積君追悼④(追悼集CDを米澤家へお持ちしました) | akm48

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追悼集CDを米澤家へお持ちしました。



4月4日は晴天、絶好の花見日和であった。
福井発8:04分の普通列車での京都行きである。京都まで約3時間。
急がない時はこれにして、特急指定席車との運賃差額で1泊するのが僕の賢い旅の仕方だ。
何しろ定年後は時間に余裕があるからね。
電車はいつになく混んでいた。席が全部つまっていた。こんなのは今まで経験したことはなかった。
みんな、京都へ花見に行くのに自家用車や高速バスを避けてこの電車を利用してるんだな。
賢いなあ。賢いのは僕だけだと思ったのだが。

11時20分に山科で辻君、豊田君と落ち合った。花見をしながら弁当を食べようショッピングセンターの地下で弁当とお茶を買った。
山科に住んでいる辻君の案内で琵琶湖疎水へ。
疎水の桜は満開であった。この辺りは街なかと違って家族づれが多かった。
食事が終わり、その辺を軽く散歩した後で米澤家へ向かった。

もって行った追悼集の説明



追悼集は製本をするつもりでいた。しかし発行部数が少ないのでコストが掛かり手間も掛
かるためにCDにさせていただいた。
CDは便利なもので追加があってもすぐに対応が出来る。

CDだけをお持ちしようとしていたら岡本さんからメールが入り、簡易(と言っても高価)
な製本機を持っているから少しだったら製本をしますよとのこと。
もう時間もないし、岡本さんにも迷惑を掛けるからと一旦はことわった。
しかし考えてみると製本してくれればそれにこしたことはない。
京都のお宅と丸岡の実家の分だけでも製本をして貰おうと思い直し急いで岡本さんに原稿
を渡した。
3日の夕方、出来上がった本を見て綺麗に出来上がっているのに驚いた。
やはり本にしたものはいいなあ。何よりも立派に見えるし読みやすい。
ありがとう岡本さん。京都宅も丸岡宅も喜ばれると思います。
また、何かあったらお願いね。僕のだけでも。


表紙はCDレーベルの下に目次を入れた。

はじめに
告 別 式
写 真
最後の年賀状
お悔やみの言葉
児玉 玲二
浅見 重則
太田 保彦
西教 圭一郎
佐々木 宏道
辻 正弘
豊田 薫
謝辞(米澤眞理子)
謝辞(米澤豊穂)
終わりに

遺影がこけた(米沢君が笑った)



京都の街なかで1軒の家を探し当てるのは難しい。
しかし辻君のおかげで一度も迷うことなく米澤家にたどり着いた。
約束の時間に少し早かったものの奥様は待っていて下さって米澤君の書斎に案内して
くれた。
書斎には我々が行くまでは納骨はしないと言われていた奥様の言葉通りテーブルの上に
一切が並べられてあった。
写真下に見えるのは名誉教授を授与するという大学の称号記です。

福井で買ったお供えをそなえ追悼集を置いた。
焼香は年齢順でやることになり最初に僕がお参りをした。
豊田君、辻君の順だったように思う。
焼香が終わりお茶をいただきながらサービス精神の旺盛な僕は受け狙いである話をした。

僕は米澤君に怒られたことがあってね。
それは、昔、紅白歌合戦か何かをやっていた時に電話をしたんだ。
米澤君は出てくるなり「今、ちょうど山口百恵が歌っているのに!こんな時に電話だ
なんて無粋だぞ」と怒られたことがあった。

その時だった。遺影がコトッとこけて下に落ちた。エッ!!。
奥様があわてて拾い元の状態に。こんなことって一度もなかったんですけど・・・・・
米澤君が照れてるぞ、笑っている、そんなことまで言うなよって言ってるんだな。
とにかく米澤君は僕らが来てくれたのがうれしくてたまらないらしい。
話の中に入りたくてしょうがないらしい。

昔のアルバムを見たり・・・・・



奥様が昔のアルバムを持ってこられ話が弾みました。
僕なんか、探してもないと思うが高校時代の写真なんかも何枚もありました。
お母さんの写真やお姉さんの写真も見せていただきました。

彼は大学で講義をするのを生きがいとしていたようで、1年半の間、南山大学へ
内地留学した後は授業のやり方が変わったとか、講義に使った資料や教科書を見
せてもらいました。
(資料や教科書を貰ったのですが忘れてきて後日奥様に送って貰いましたが・・・)

そろそろ時間が来て退出しようとすると
形見分けというのではないのですが主人のもので何か貰っていただけませんかと
遺品を持って来られた。
全て洗濯に出されていて清潔なものだった。米澤君はおしゃれで、なかなかいい物を
持っている。
僕は帽子を貰うかな。オッ これは雪かきにいいな。前と後ろにツバのあるやつ。
米澤君は何を思ってこんな帽子を持っていたのかな? 
雪かきには首筋に雪が入らないからいいんだろうけど・・・・この京都で。
帽子を2つ貰い、豊田君はネクタイを辻君はシャツを形見として貰った。
約2時間、米澤君の書斎で彼をしのんだ。

キリン・シティで3時間以上もダベリング



米澤家を退出した後、山科駅から毘沙門堂へタクシーに乗った。
道が狭い上にとにかく人が多い。これ以上は車が進入できないというところで降りた。
京都は3大祭りと桜、紅葉の時期の休日は観光客でいっぱいである。
ただ、桜や紅葉を見るだけなら他にもいい所があるのだろうが京都という地が重要な
ファクターになっているのだろう。
毘沙門堂の枝垂桜を見て駅に戻り藤田君と4時20分に落ち合い寺町に行くことに
なった。
寺町にキリンビールが直営するパブのような店がありそこで米澤君と豊田君が語り
合ったことがあるからそこへ行こうということになった。
地下鉄市役所前で降り豊田君の記憶を頼りに店を探すのだがなかなか見つからない。
交番で聞くのだがここでも分からない。
  お~い、いつ頃のことや
  13年前。1997年やな。
  すごいな。よう覚えてるな。
  この前、追悼記を書いたときに調べたから覚えてるだけや。
  僕なんか昨日のことも覚えてえん。昨日の夜なにを食べたんやろ?・・・・・

だいぶ歩いて疲れてきたので通りの商店で聞いたら直ぐに分かった。
応対も非常に丁寧であった。
捜しあぐねていた店はキリン・シティという所で地下にあった。
僕なんぞは地上だと思って看板を捜すのに上ばっかり見ていたぞ。

店は盛況であった。狭い店に小さなカウンターがユニットみたいに何セットか
並んでいる感じでこれが都会風なんだろうな。
4人でビールを飲みながら若者に返って青い話に話が弾んだ。
米澤君の想い出、家族のこと(この4人は誰も孫がいないんだな。米澤君も。フフフ・・)
歴史の話等々。
この席に米澤君がいないのが残念だった。

さあ、そろそろと時計を見ると3時間以上もダベっていたらしい。
しかし、面白かったなあ・・・

僕はこの日は1泊した。このホテルにはカルチャーショックを覚えた。
しかしこれは書かないよ。