2022年7月 石鎚神社先達会符 第一番「甲」「乙」 | 旅する石鎚信仰者

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やはり石鎚山は素晴らしい。

 

石鎚神社先達会符 第一番会符

この石鎚神社先達一番会符については様々な資料が存在するが、内容はほぼ一緒

であり、一般的には以下の様に伝え残されている。

「石鎚神社一千三百年史の年表によれば(安永8年 石鉄山弥山の鉄鎖切れる)

とあり  この事がきっかけで今回の鎖に掛け替えられ、更に翌年の安永9年には

鎖の掛け替え功労者(木地屋市左エ門 第一番の先達会符を受く)とある事から石

鎚山先達会符発行のきっかけとなった鎖でもある。」

「山と信仰石鎚山によれば、なかでも三津浜の木地屋市左衛門が所持していた

石鎚山の先達会符1番札は権威あるもの、霊能あるものとされ、病気封じ・諸病

治癒・小児の疳の虫・夜尿症などに効験があるとされる。 この会符は安永4年に

出されたもので菊花紋のある黒漆塗の鞘付きである。」と記され、更に現在この一

番会符の保存されている場所は「三津町神田町の石鎚分社に市左衛門の墓碑ととも

に保存されている」と伝えられている。

ここで上文には安永8年に鎖が切れ翌年一番会符受くとあり、下文には安永4年

に出されたものとあるが、これは資料の違いによるものであり、もはやどちらが

正しいかは分からないが、鎖が切れた情報を加味すると安永9年発行となるが安

永年間である事に間違いは無いよう

そして、上記の様に記される一番会符であるが注意すべき点があり、この一番会符は

安永年間に石鎚山別当寺の前神寺から出された先達会符であり、現存する一番会符

は石鎚神社が昭和9年に新調した会符である、この事は松山市神田町の石鎚不動堂内の証からも確認できる。

現在では、前神寺が出した元の一番会符の行方は分からないし情報も無く、昭和9年

に石鎚神社から新調された会符が一般的に一番会符として伝えられている。

そして今では、この先達一番会符の存在や権威を知る人も少なくなったが、現在でも

7月1日の石鎚山お山開き大祭御神像御動座で中予崇敬組合奉仕団の先頭は、この

一番会符を管理している松山市三津浜の「刈屋会」と呼ばれる先達団体が、この一番

会符を背負って登拝している。

そしてこの一番会符に関心を抱き、2012年4月、この一番会符が保存されているとさ

れる松山市神田町にある石鎚分社を探し出し訪問したが、中に入る事はできず一番

会符を確認する事はできなかった、そして2017年石鎚山お山開き大祭では、この一

番会符を山頂で手に取って見る機会があったが、中の一番会符本体までは確認でき

なかった、そして2021年石鎚山お山開き大祭では、この一番会符を手に取りじっくりと

拝する機会が訪れ、いろいろな情報を得る事も出来た。

しかし自分の中ではこの一番会符についてずっと不思議に思っていた事がある、それ

は、明治4年に前神寺から石鉄神社となり明治35年には現在の石鎚神社となったが、

先達会符制度は前神寺の時から確立している、では明治4年以降、石鎚神社から先

達会符がいつの時代から発行されだしたかは定かでないが、石鎚神社になってから

最初に発行された石鎚神社先達一番会符という物は存在するのか?という事であっ

た、まぁ神仏分離後の混乱期であり、こんな事は解決する糸口はもはや無いと思って

いたが、昨年の夏、石鎚神社先達台帳を見る機会が訪れた、そして上記に記す刈屋

会が保持する一番会符には「甲一」と記されている、更にもうひとつ別の一番があり、

全く別の方が保持している会符に「乙一」と記されている、何と石鎚神社発行の一番

会符は2枚あり、昭和9年に新調された会符が「甲」もう1枚の方の会符は「乙」として

台帳上管理されていたのである、ではこの乙一の先達会符が本当の意味で石鎚神社

から最初に発行された一番会符なのか?という事になった、そして崇敬組合長へお願

いし今年の石鎚山お山開き大祭期間中、この「乙」の一番会符を保持する方と会う事

が出来た、これも石鎚山の御縁か、それとも運命のいたずらか、この一番会符を保持

する方は何と元恩師、計算すると39年ぶりの再会であった、いろいろと貴重な資料を

いただき有意義な時間でしたm( _  _ )m

更に今年の石鎚山お山開き大祭では石鎚先達二番会符を手に取る機会も訪れた、

大祭初日は一番会符そして二番会符が並んで登拝したのである、石鎚信仰の様々な

御縁から今大祭では石鎚神社先達会符「甲一番」「乙一番」そして「ニ番」に触れる事

が出来た、この一番会符については様々な想いから公開を控えていたが、今大祭の

すべての出来事をきっかけに、後世に残すべき石鎚信仰の歴史的資料として捉え、こ

こに公開する事にした、そして大祭が終わって思う事は「やはり石鎚山はすばらしい」

という事であるm( _  _ )m

 

 

 

 

 

 

 

 

石鎚山お山開き大祭初日

中予崇敬組合の先頭を行く先達の背中には先達一番会符「甲」

 

これが石鎚神社先達一番会符

石鎚神社先達台帳には「甲一」と記されている

一般的な木製の先達会符より二回りほど小さい大きさで

表裏共に文字は銀板にプレスされ凹状になっている

 

裏側には木地屋市左衛門以外に13人の氏名が記されている

石鎚不動堂に掲げられている昭和9年4月1日発行の石鎚神社の承認書には

「一番会符所有者を三津浜全町に移譲し保管を左記13名に委任」

と記されてあり「左記13名」とはこの一番会符裏面に記される方々の事

この会符が作られた昭和9年当時はこの13名によりこの会符は保管管理されていた

 

会符の作りは単純で木の板を銀色の板で巻いている感じ

 

こちらは外会符、この中に上記の銀色の会符を入れている

会符を差し込んだ状態で見るとこの外会符が一番会符のように見える

そしてこの菊花紋は木地屋の紋章という事

 

裏側は木地屋市左衛門

この外会符は銀製の会符と同じく昭和9年に作られた物と思う

これは松山市神田町の石鎚不動堂内にある写真から判断した事

 

普通に木を組み合わせ箱状にしている

 

表の菊の印と文字、そして上部の補強部分は真鍮だと思う

 

下部から銀色の先達会符を差し込む作りになっている

 

鎖の掛け替え功労者 木地屋市左衛門とは

木地製品を扱う木地問屋であったと資料にある

 

何と、この一番会符「甲」には別に通常の先達会符が作られている

はっきりは分からないが昭和時代に作られた会符のよう

 

この会符の裏側は保持者が木地屋市左衛門ではなく

現在この会符を管理している「刈屋会」となっている

 

そしてこちらが石鎚神社先達一番会符(乙)

石鎚神社先達台帳には「乙一」と記されていて外会符は無い

何故この一番会符を受ける事ができたかは分からないが

石鎚信仰にかなり尽力していた事は間違いないだろう

石鎚神社も認める一番会符であり先祖代々受け継がれている由緒ある会符

この会符こそが本当の意味で石鎚神社発行の先達一番会符と言える

 

この会符の数字は旧字で記されている

現所有者の祖父から受け継いでいるものであり

住所と名は現在に書き換えられている

 

更にこの方は別の一番会符も保持している

もはやこの一番会符がどういうものか分からないが

明治時代より以前に前神寺から出された会符である事は間違いなく

僕の旅の中で同じ校正の会符を見た事はあるが

表面の文字が真鍮で模られた会符は初めてである

現在この会符は石鎚神社に架蔵されている

 

こちらは松山市の勇組が保持する石鎚先達二番会符

先達台帳には「甲 ニ」とあるので二番も「乙二」が存在していると思う

 

裏面はかなり削られてあり長い歴史の中で何回か保持者が書き換えられた様子

「やはり石鎚信仰はすばらしい」

m( _  _ )m

 

 

 

 

 

 

 

 

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