2014年5月 岡山県 総社市の1番古い石鎚神社 (新本春山遥拝所) | 旅する石鎚信仰者

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やはり石鎚山は素晴らしい。

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岡山県の総社市新本の山中に石鎚神社がある。

この石鎚神社の事を知ったのは「生活のなかの行道」という本の一節にこうある

「現在判明されているもっとも古い石鎚社は総社市新本小笠原地区の奥にあ

春山中腹の石鎚社である。岩壁に彫られた石仏の脇に「文政十一年子六月

朔日 氏子中世話人 小原池田中 大先達同行 長尾泰助 小阪兵吉」とみえて

いる。1828年(文政十一年)ごろに勧請されて祀られ始めたのであろう。この

の石鎚社の創建については、地元では、宝永年間(1704~1720)と伝承

もある。」と書かれてある。

これ以上の事は何も書かれてなく情報に乏しいが、実はこれだけで現在も位置

特定ができたのである、ヤフーの地図に「石槌神社 ! !」と載っているのである。

何よりも本に書かれてある「もっとも古い石鎚社」と言う言葉に引かれるがこれは

たぶん僕だけであろう(^_^)。

今回はこの岩壁に彫られた石仏の脇にあると言う文字を確認しに行こう。




地図には春山は出ていないが
「石槌神社」と出ている
しかし道はどうなっているのか分からない
後で分かった事だが地図の
位置は石鎚神社奥の院の位置である

さんざん探し回って石鎚神社への道は
ゴルフ場の中にあった
吉備カントリークラブの門を入り100mぐらいの所を左折

「左いしづちさんどうくち」

綺麗な道が続いている

建物が見えた

思ったより立派な石鎚神社
建物の左には山に向かって道がある
あそこが奥の院への道のよう

地図は「石神社」と記されていた

中には入れないが小窓から覗いてみると
石鎚大神が入っているのであろう木箱が三つ並んでいる

奥の院へ

登山道の中間にある石碑

「大正三年七月十五日再築」とある
再築と言う事はそれ以前からあったと言う事
かなり古い事がわかる

二丁 (約218m) を記す石碑

建物が見えたら崩れかけの便所だった

奥の院のようだ、下から20分ぐらい

どうも廃墟になっている様子

もう一段上まで道が続いている

この祠は何か分からなかった

神社の中を覗いてみると
どう見ても管理されているようには見えない
屋根裏には何か住んでいるようで
どたばた走り回っている
神社は東向きだが祭壇は北向きである


ほら貝に経典など
ロープはどう使うのか分からないのだが
ここで覗きの行をやっていたのか?


何というめぐりあわせか
ここでも石鎚山旧跡三十六王子社の著者
十亀和作元宮司の名を見る事に
生きておられたら聞いてみたい事だらけだが
ここは元々「石鎚本教新本春山遥拝所」のよう


もう他には何も残ってないようだが
じっと見渡していると祭壇の上の石に
紛れ小さな小さな石鎚大神が一人だけ立っていた
硬い所で倒れまくったのかがじがじで形もはっきりしないが
この御神像は中央に立つ玉持の御神像である
鏡持と剣持の御神像二人はどこに行ったのか?
なんとも寂しいかぎりである。

この上に岩壁に彫られた石仏があるはずだ
文字を探さなければ

この岩壁のようだ

役行者の石仏

どうもこれのようだ
不動明王の横にはっきり文字が見える

裏側の割れ目にも石仏がある
あれも役行者かな

下にも石仏がある
これは間違いなく役行者だと思うが
岩の上から落ちて割れたのか
残念な事に頭部がなくなっている

「文政十年」の文字を確認してみよう
しかしぜんぜん割れてないし風化も少ない
この不動明王は東向きでほとんど日が当たらない位置

年号を表す文字がすべて読める
「文政十一年子六月朔日」
この意味は「1828年6月1日ねずみ年」と言う事

大先達の氏名もしっかり読める

ここからの景色はすばらしい

数メートル下ったところに東向きに道がある
途中で上下に分かれているが奥で繋がっている

下のほうへ進むと
岩の上に石仏がありはっきり読めないが
上部に「子守大明神」とある、たぶん

ここから上に向かって道がある

もう1つある

同じような石仏だが

「勝手大明神」

階段を下りた所にも東向きに道がある

普通に言えば水場だが

どうも昔の禊場といった感じだろうか
上部に御幣が立てられている
今はほとんど枯れている

桶の中には今も水が溜まっていた

右の山の中央部分に小さく色が違って
見えるのが奥の院

「やはり石鎚山はすばらしい」





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