それは誰にも口にしたことがないなんて
おそろしいなぁ
見たこととか、
話したこととか、
あるいは忘れたこともだ
わたしの好きな人はあの角を曲がってとっぷりと消えたことになってゐるが
わたしは熱心に私だけが二三口をきいただけで
その言葉はそのままなっている
けふもまたなぐさめに唱歌を唄ふ
不意と昔の歌が口の端から出てくるのだ
不思議だなぁ
一方でその言葉はそのままに私の中に放り出されている
海岸に打ち捨てられて船の胸骨のやうに滅んでいくんだ
だんだんあちらの方に近づくに従って
わたしは次第に観念する
嘘八百でなく真心(しんじん)
呪文とか符丁になる
手を胸の前に合わして、掌(たなごころ)にすっと
「愛してる」だった
オドラデクは玄関とか階段の下にそっと置かれて
どうかすると埃のやうにくすくす笑ったりする
気が付くといつの間にかゐなくなっていた
1920、カフカ「家父の心配」■符丁「オドラデク」をめぐるごく短い作品。
奇妙で、不可解な、しかしどこかかわいらしい生き物、それがオドラデクだ。
倉石智證













