上の梵字は私、隆健の筆による、サンスクリット語・般若心経からの一文字です。
ブログを途中からお読み頂いた方々の為に、過去のブログを、改めてご案内させて頂いております。なお、私のつぶやきは実生活には何の役にも立ちません。謝謝。
つぶやきを進めましょう。
大乗仏教「否定」論から、真言密教「現実肯定」論が誕生。
ちょっと、寄り道です。
弘法大師・空海の著作『即身成仏義』は「この宇宙に存在するあらゆるものが、全体の中でひとつとなり、繋がりあって存在する」という著作物です。私は、この『即身成仏儀』の意義を『即身成仏』=『平等』として捉えて、皆さんにつぶやいて来ました。
話が変わりますが、お釈迦様は因縁生起の縁起論=「これがあるから、次に、これがある」と、連続していく理論を説きました。その結果、この縁起論の逆説の『不生』論=「これが無ければ、次に、これが無かった筈」の理論が生まれました。以降、大乗仏教は、人間のあらゆる煩悩・欲望を捨てるべき『否定』の世界で成り立つようになります。〔究極に無明の存在を説きます〕この理法が大乗仏教の基本認識になります。
以降、僧侶たちの基本生活は煩悩・欲望を棄てて修行、生きる道となっていきます。
もっとも、お釈迦様は煩悩を捨てるのではなく、煩悩(苦)を乗り越えて生きることを教えていると、私は思っていますが。
弘法大師・空海は『即身成仏儀』『声字実相義』を前提としてさらに『『吽字義』(全部で三部作)を連続発表しました。空海はこの著作物の中で『・・・不可得(阿字本不生不可得など)』論を発表し、お釈迦様の因縁生起の縁起論と並んで、別な世界論を提供します。
『不可得』とは、一体、どのような意味なのでしょうか?
『不可得』の世界とは=否定・否定を、し抜いた先に行けば、その先は、どうなるのか?もう、凡人である私達には、何が何だか、分からない世界となる。つまり、お釈迦様が説く12縁起『無明』の世界よりも更に奥があり、その更に奥となると、もう、私達では、知りようのない世界となる。
しかし、今、ここに、現実に私達は生きている、このような現実が存在するからには無明を超えた何かがそこに存在するのではないか?その『存在』の肯定を、空海は真言密教の世界で勉強するなら、体得できるぞ、と表明したのです。
ここに、真言密教、曼荼羅『平等論』と溶け合うようにして、大乗仏教の否定の世界とは別な真言密教の『現実肯定』の世界、例えば真言密教・最奥義の経典『理趣釈経』が説くところの、男性と女性が仲良くひとつになって生きて行く、そこには愛あり、愛するあまりの欲望ありの現実世界を全て肯定する論理が大きくクローズアップしてきます。
真言密教・最奥義の経典『理趣釈経』とは、空海と最澄が交遊関係の決別ともなった『問題の経典』です。いつか、この真言密教・最奥義の経典『理趣釈経』を皆様にご案内する時が来るでしょう。その時は、心して掛かりたいと思っています。