この数日のことは忘れたくないので、
しっかり記録しておこうと思う。
私の母方の祖父は、
骨太で骨格と心がずっしりとした、
おすもうと読売ジャイアンツと、サスペンスドラマと
甘いものをこよなく愛する95歳の大正の男だ。
じっとして騒がずいつもどっしりとイスに腰をおろし
寝ているのかと思いきや、とびきりおちゃめな冗談を言ったり
周りを驚かせる程説得力のある一言を言ったりする。
必殺技は入歯をガクーンと外して
みんなを笑わせること。
(例えば、写真を撮るときやバースデーケーキのろうそくを吹き消すとき)
私の名前を呼ぶ時に、「あっちゃん」と、
「ちゃん」の部分にアクセントをおくのが特徴だ。
私たちはよく、おじいちゃんと握手をする。
例えばそれは、おじいちゃんの家に行って帰るとき。
同居をするようになってからは、一緒に晩御飯を食べたあと。
祖父母のリビングまでついて行き、
「じゃぁねおやすみ。またね。」と言いながら握手をするのだ。
おじいちゃんの手はいつも温かく乾いていて、
驚くほど力強く手を握る。
その温かさと強さで私は、よしよし、
おじいちゃんはまだまだ元気だなと安心したりもしていた。
先月の一時帰国からタイに戻るときもそうだった。
車で羽田空港まで家族に送ってもらう時
祖父は玄関の外まで見送ってくれ、そしていつものあの握手をしてくれた。
それから数日後、おじいちゃんは運ばれ入院した。
姉から送られてくるメールで知るその病状は
日に日に切迫していった。
母から今までは、仕事もあるし遠いし、
もし何かあっても帰ってくる必要はないと言われていたが、
ついにそれも、「帰って来れるなら1分1秒でも早く」となった。
飛行機で6時間の距離は、
近いのだろうか遠いのだろうか。
その距離の間で私がしきりに願ったのは、
またおじいちゃんといつもの握手をしたいということだった。
病院で規則的な呼吸を繰り返すおじいちゃんの手をぎゅっとにぎった。
いつもと変わらない温かくてしわしわの手だった。
にぎり返してくれるときの強さを除けばいつもと何にも変わりがなかった。
弱くても、とっても温かかった。
それから私が日本にいる間、その病状は
小さな波を乗り越えながら、
少しずつ少しずつよくなっているように見えた。
勤務している大学の新学期がせまっている私は、
9日の午前1時の便で帰ることになっていた。
その日の夕方、おじいちゃんにもう一度会いにいった。
熱があるおじいちゃんは少し苦しそうにしながらも、
目をしっかりと開けて、私を見たり、母を見たり、
自分の点滴を見たり、天井を見たり、忙しそうにしていた。
私はおじいちゃんにタイに帰ると言わなかった。
「おじいちゃん、またね。」とだけ言って、おじいちゃんと握手をした。
その手は熱のせいか、今までよりももっと温かかった。
たった6時間の場所なんだから、
私はいつでも帰ってこれる。大丈夫だ。
飛行機は快適で、実家にほど近い空港に着くことができる。
またきっと、おじいちゃんにも会える。
タイに戻り、自分の部屋に着いて、
出勤時間まで少し休もうと思っていた7時半ころ。
母から電話があった。
おじいちゃんが明け方、亡くなったという。
私が日本を出て、飛行機に乗っている時間だった。
自分で言うのもなんだけど、
私が帰るのを待っててくれて、
私がいる間、がんばってくれてたのかなぁと思った。
一番下の孫だから、私がおじいちゃんを心配するように
おじいちゃんも私のこと心配してたのかなあ。
それから少しだけ泣いて、職場に行った。
同僚の顔を見たらまた少しだけ泣いてしまったけど、
どうにかこうにか今日という日はおわった。
亡くしてみて改めて思うのは、
おじいちゃんのおかげで今までものすごく楽しかったなぁということだ。
おじいちゃんの周りに親族が集まって、それだけでものすごく楽しい。
きっとお葬式も、涙と笑いと、笑いと笑いに包まれるだろう。
自分も年をとって死んでしまったときに、おじいちゃんのように、
あの人がいたからなんだか楽しかったね~笑わせてもらったね~
なんて言われたら最高だ。
草葉の陰でニヤリとしてしまうだろう。
日本を離れて2年目になる。
私には、海外で仕事をして生活をするということの覚悟が少し、
足りなかったのかもしれない。
どうすれば覚悟と心の折り合いがつくのかは未だに分からないが、
それならば私は常に後悔しないようにいたいと思う。
この数日間のように、思いっきり笑ったり泣いたり、
気持の赴くままにしていれば、あのとき・・・なんて後悔は
しなくて済むのかもしれない。
さてと、来週には授業も始まるし、学生たちと思いっきり笑って勉強しよう。
最後に
おじいちゃんピースでお別れ
←あ、これはさかさま。
おじいちゃんまたね!




















