人が、様々な
経験を経て
それぞれに、
事を解釈し、
自身を納得させたことを
人は、遠くを見つめて
一人語る。
そんな人の姿を
間近で
目に留めながら、
耳を、澄ませて
拝聴させて貰えることは
とても有り難い。
一つの物語りに
耳を、澄ませて
心を添わせて
その情景を
思い描いては
映画やドラマの中に
入り込んだように
見せて貰えた
その人の
立場に立った
その人だからこそ
その人が、そう物事を
解釈することで
自身を納得させた実績を
人は、学ばせて
貰えるからこそ、
自身が同じような
境地に陥った際に
嘗て誰かが、語った
台詞を思い出し
なるほど、これか。と
自ら、気付くことで、
納得いって
嘗ての誰かが経験した
多くを省いて
己の心を鎮ませることが
出来る。
だけれども
それが適わない者は
どこまでも
独りぼっちで
何かを、埋めようと
するように
鎮めること適わずに
何かしらを求め
焦れて灼かれて
ひもじさに
飢え、渇きを
覚え続けてしまっては
何を悠長なことをと
自らが、蔑ろに
してきた事事がために
何処かの誰かが
一から経験したことを
現実世界でも
一から辿り
怒涛に生きる。
自分自身が
何をどのように
解釈すれば
自身を落ち着かせることが
出来るかも
分からぬまま
手探りに
苦し紛れに
情けを乞うては
施された
多くの情けの中から
今の自分の都合
欲望を満たすものを
選り好んでしまっては
この世に
存在していた
星の数ほど
無数の存在らから
何かを恵まれ賦与され
施され、
一つの気付き、
解釈を賜り授かったように
捉えることもなく
一つの気付き
解釈を経て
納得出来たことで
世界の見方、
そこからの解釈が
また、変わってゆくことを
どうにも、
自分には、
理解し難いことにして
だから、今の、自分には
そう解釈して、
そのように物事を見て
自分を納得させることなど
出来ない。と
何故だか、そんな有り様で
胸を張って見せつける。
何かに煽られ
祀り上げられでも
したかのように
胸を張って見せつける
相手には、目もくれず
他の視線を意識しながら
演じるそれを
見せつけられた相手は
当然、拍子を打つことなく
拍子抜け。
どこかの誰かが
自分自身の有り様に
拍子を抜かしたことを
自分が、相手の拍子を
抜かせてやったかのように
浮かれ踊っていては
自分が、他所の誰かに
自分とは違う、
見方で捉えられ
違う解釈をされることを
自分には
納得出来ない。等と
ウッカリ
言い張ってしまうのだろう。
違う解釈。
捉え方をされるのは
当たり前のこと。
どれもありなん。
どれも良し。
それによって
あぁ、ソコか。と
他者に親しみを
覚えて貰うこともある。
自分も貴方の立場なら
そう捉え、そう解釈し
そのように
自分を納得させて
動くこともあるだろう。
もちろん
どう動くことにするかは
また、それぞれの
それまでの経験や
出会いや見てきた物事を
どのように、解釈し
どのように、自身が
納めて来たかに寄って
変わるもの。
理解出来ないもの
今の、自分には
納得出来ないものがあると
今、そのように感じるものは
まだ、積んでいないことが
自分自身にあるのだろう。
今の、自分を
納得させることが
出来ないから…と
自我、我欲に固執して
偏り、ひね曲がってしまうより
勤勉に習い生きて
今ある、己の命、存在が
数多の尊き存在を礎に
存在出来ていることを
自分自身が理解して
自分が自分を納得させて
生きていけることの
有り難みに
自ら、気付けるように
成った時には、
皆、自ずと
数多の、解釈
その時々の
ソコに、在る人の
有り様に、寄り添って
傲ることなく
納め生きることが
適うように
成っていることだろう。