連帯責任を
とらされるのって
訳わかんないよね。
そうそう
あれほどに
理不尽なことは
ないよね。
ホントホント。
自分は、
悪くないのに、
悪いのは、
アイツじゃんって
思ったよ。
誰もが、
話題を振られると
出題者に
合わせてくれる。
連帯責任をしく前に、
連帯責任の意図を
先ず、解いて
自分のためだけを
考えて
動いていると、
慣れを感じる頃に
ホンのはずみに
何かに誘われ
自分のことだから、と
人は、油断する。
だけれども、
誰かのためにも、
こうしなきゃ。と
動いていると、
気を引き締めて
生きることが出来るし、
その分、目端が利いてきて
周囲のことも、
よく見えて、
他者をフォローし
補えるようになるんだよ。
責任感が
身に付いた人ならば
皆、その境地を
知っている。
ただ、自分の知識を
言語化するのは、また
違う努力がいるし、
不器用な人等は、
自ら、言葉を尽くすことよりも
自らが、知っていること等は
誰もが、理解出来る筈のことだ。と
強引に物事を
推し進めてしまう。
先生に依って
後進の、意欲や意識が
違うのは
よくあること。
連帯責任についても
責任感をもって
誇り高く、
意欲的に努める者も居れば
ホンのはずみに
何かに誘われ
つまずいて
独り勝手に傷ついては
そうした無垢な徳ある魂に
嫉妬し、妬み忌み嫌い
ウザがり、忌避するばかりか
そんな今の自分の有り様を
肯定しようとするように、
自ら、出題者となって、
この指とまれ。と
周囲に誘いを
かけてしまう者も居る。
そうしてしまった者は
見えなくなって
しまうものがある。
今、どのような
視点で、物事を見て
どのような考察を
携えている者だろうとも
多くの人は、
出題者に、合わせて、
出題者を、立てた物言いを
普通にしてくれることを。
周囲に誘いを
かけてしまった者だけが
可哀想なことに
独り、追い立てられて
追い詰められては、
本来ならば
誰もが、自分を
立たすために、
一人、自分に向かって
言い聞かせるような、
他の誰かも、賛同し
こう言った。だとか、
他の誰かも、自分に
こう言ってくれた。だとかを
他者に向かって
胸を張って
言い切っては
目もあてられぬ程の
醜態を自ら晒してしまう。
ありのままの世界を
それでも
真っ直ぐ見てゆく者か
ありのままの世界の
何かから目を反らし
自分本位に歪めた世界に
のめりこもうと、
自ら、囚われゆく者か。
今、どのような
モノの見方を
している者だろうとも、
誰かが、
何かしら出題すれば
出題者に配慮して
出題者を立て
時には、
その話題を中心に
興が、膨らむように
だよね〜。
ホントホント。
一緒。一緒。
自分もそう思ったよ。と
平気にゆったり
中には、
そんな他愛のない言動にも
自己責任をもって
付き合う者も居るんだよ。
だからこそ、
誰かも、
こう言ってくれていた。
なんてことを
挫けそうな
自分自身を支える為に、
自分に向かって
言い聞かせる以外に
他所の誰かに向かって
言い放っても
「はあ…?」
(何だこの人?)と
思われながら
「それは、よかったですね」と
ただ、その出題に、応じ
合わせらた台詞が
優しく、己が頭上に返るだけ。
誰かも、
こう言っていた。と
自らが、名を連ね上げる
誰にも、責任転嫁は
出来はしないし、
名を連ね上げた
誰かが、肩を並べて
自らの横に立ってくれたなら
それこそ自分が
横に並び立ってくれた相手に
感謝し、報いて
踏み留まれてこそ
自分と云う人格は
どうにか保たれ
人は、人として
成り立ってゆくのでは
ないでしょうか。