王様の耳は驢馬の耳 | 王様の耳はロバの耳

王様の耳はロバの耳

普段口には、しないで
済んでいることを
こっそりと、呟いて…

人は、誰もが
愚かしくも、
あまりにも、簡単に

与えられ具えていた、
徳や尊厳を自ら失くし
迷ってしまうことを
私が忘れぬ為に書く
普段は口にしないこと。


子供が拉致されたり
拐かされたりして、
自分の意志ではなく
拐われてしまった。と
感じる親は

いつまでも、
いつまでも、
半身をもがれたように

心を遠くに馳せ続け
無事な姿を拝みたい。と
願ってしまうものだろう。

無垢で無邪気な
我が子を信じて
その時、その場に
自分が一緒に
居てやれなかったことをも
悔しく思ってしまうのだろう。

一度ばかりか
二度、三度
同じようなことを
繰り返されても
親は自分の子供を
疑うこともなく

無垢で無邪気だった頃の
面影を思い出しながら
本意ではないのだろう。と
子供の寂しさ、侘しさ
孤独な心を細さに
その弱さを考えては
一人、心を傷めるのだろう。

そうして、心を傷めながら
子供の弱さに寄り添って
子供も何かを今
辛抱(信望)している
筈だから。と

自らも、その
心の傷みに負けないように
踏ん張らなければと
当の子供に言い聞かせ
共にそれぞれ励もうね。と
告げて頑張ってみても

弱い子供は
先に挫けて

先に投げ出し
共に励もうと
言われたから
言い出せなかった。
自分は親のように
強くはないんだ!と
背中を向ける。

親は当然
突然、斬り付けられたような
傷みを伴い
思わず、蹲りそうになる。

それでも、
踏ん張り堪えて
子供の無垢で無邪気な
弱さに、共に向き合おうと
踏ん張り堪えようとして
膝をつく

思わず、過去を振り返り
自分の子供の頃に
重ね合わせて
自分の親がしてくれたことを
思い出しては
支えにすることが適うのだろう。

だけれども、
親の親でも、自分とは違う人。
親の親が、親にしてくれたことが
今、自分が子供に
示そうとしていることと
あまりに違う姿勢であれば

親は、自分の親が
当時、どのように
自分に向き合っていたのか
その姿勢、その心が
気になってしまう。

すがる姿勢なのかも
知れないけれど
何か、求めるモノを
ソコに欲してしまって
いるのかも知れない。

訊ねても
訊ねても
求めるモノは
自分の親から
返ってこなかった時

自業自得
因果応報に

この現実世界で他者に
すがり、甘えて
自ら、欲しい答えを求めて
期待してしまったモノは皆、
同じ目に合ってしまうのだろう。

親がどうとか
誰がどうとか
他者のこの世のソコでの
在り方には
一切関係なく

ただ、自業自得
因果応報に

ソコに、酷な真似をする
仏の顔をして優しく
地獄に降りて来て
欲しいモノを
与えてくれる仏様は

その地獄から
救ってくれる人ではなく

地獄に留めさせ
束の間の安らぎを与え
その安らぎがあったから
またソレのない日々が
辛くなる
酷な真似をする人だ。

親に成るには
親に成ろうと努力して
自らが大人に成るために

子供の殻を
自らが脱却せねば
大人にも親にも
成れはしないのだろう。

自分は酷な真似をする
存在ではなかったか?

自分が子供に対して
心を傷め
何かしてやろうとすることは
本当に正しかったのか?

子供が突然、拉致されて
何も分からず拐かされ
拐われて
今を不安に過ごし
親を故郷を恋しがって
泣いているのではないか?

そのように想いを馳せれば
何かしてやりたくて
今、自分が、ジッとしていることも
苦痛に思えて、席を立ち

誰かれ構わず
子供に合わせて欲しいと
すがり、甘え
求めてしまう想いが
突き上げる。

人が、自ら
そのような想いに
駆られた時には

人は、また、顧み
回顧してしまう。
今までの人生で自分が
出会って来た人達

特に自分の両親は
こんな時…と
きってもキレぬ関係性が
ソコに在る。

自分と同じように
腰を上げる親の姿が
ソコにあれば
今の自分を制するよりも
後押しされてゆくのだろう。

それが正しい行為とは
決して言えないのに。

自分がソコに
「善かれの想い」を
有しているからと言って

ソレが、自分とは違う存在に
有効かどうかは
相手の度量次第。

相手が、自分とは違う人の
この世での行いが
今の自分にとって
煩わしさを増し
迷惑に感じそうになっても

相手が、自らの
そんな邪念を
自分とは違う他者の
「善かれの想い」が
ソコに合ったことを
信望(辛抱)して
昇華出来る者か

それとも、
己の邪念、欲に固執し
自分とは違う他者の
「善かれの想い」を
ソコに見いだすこと適わずに
「悪意」のように捉えては
そんな奴が、
ソコに居る限り…と
自らが、ソコから
動けなく成ってしまう者もいる。

人にとって大事なことは
いつでも、人としての
自覚と責任を以て

数多に広がる
多くの道の中から
今の自分が選ぶ道、
その道にて、人として
今を自らが生きようと
努力をし続けることだろう。

この世の何処で
自分とは違う存在に
囲まれても

人がソコで向き合うのは
その人ばかりとは
限らない。

それも失礼
極まりないことで
己の仇にも成る
自業自得
因果応報のあり様だけど

今の自分の選択を
今の自分の想い気持ち
都合事情、主義主張
欲を以て選ぶことよりも

案外、残りモノにも
福は有る。と
譲ってみても

現実の生き方は
大して変わらない。

自分とは違う存在が
ソコに在る。

意気投合するようなことが
たまたま、あっても
それが毒に成ることもある。

この世界で
自分とは違う存在に
嘗て意気投合したモノのように
接して貰いたい。と
後に願えば仇と成る。

この世に存在する
今、どのような生き方を
している人にも
目には見えない後ろ盾を
誰もが心に有している。

自らが後ろ盾に支えられ
感謝をしている者は皆、

自分とは違う存在の
その後ろ盾に礼を払う。

必然的に
今の在り方、
その姿勢が滲み出て

今、どのような
生き方をしていて
今、何故に
対峙しているのかさえも

自分に対しての
上辺のような姿勢より
自分とは違う存在に今、
どのように接しているか
その姿勢に滲み出る。

自分以外の他者に対して
姿勢などには
目もくれず

自らに対し
どのように接するモノかを
求め期待し待ち構える者は
上辺を求め

相手が自ら業を深め
墓穴を掘ること期待して

その隙を攻めて
その相手を
今の自分の在り方の
贄や踏み台にしてまで、

今、ソコに在る
自分の在り方を
この世に
誇示しようと
落とし穴のつもりで
墓穴を掘って待ち構え。

自ら掘った穴から
出れなくなって
誰かが落ちて来てくれるのを
すがり甘え期待して
掘った土を舟幽霊のように
脇を通るモノに
投げつけては

自分はこんな後ろ盾を
持っているんだ!と
自慢して 

他者の有する後ろ盾を
自分の有している
後ろ盾よりも
粗末のように
この世にて扱う者の在り方は

いつでも
自らが有していると云う
その後ろ盾が
今の自分に何かを
してくれないことに
渇望している己を

そうして他者の
有するモノと比較して
イジケ慰めているように
映ってしまう。

親の元から
未だ頑是ない子供が
離れてゆく。

自分の
意志ではないことを
憐れんでは
親は心を引き裂かれ
いつまで恋しく想っては

今は、ソコに居ない
その子供が、今でも
ソコに在るかのような

この世に確かに
存在していたんだ。と
その証を求め欲して
生きている。

子供がソコに居た頃の
在り方とは違う親に成る。

そんな
この世での振る舞いも
その選択も

その親の周囲に
それまでに在った
多くの人との出会いの中から
その行為の後押しと成る
在り方をしていた者に習い

今、ソコに
人は、存在している。

どのような存在を
後ろ盾に今、
ソコにそうして在るのかが
言わずもがなに知れてくる。

自分と違う選択を選ぶ存在に
制されたり、誘われたり
自分を後押しするような存在に
支えられたり、
古傷想い出させたり。

今、ソコに在るモノの
その在り方は
何をコチラに語らずとも
他者に対して
どのように接しているかを見れば
その現状が知れてくる。

わざわざ
直接、話しかけ
わざわざ、己の業を
何処かしこで深める必要はない。

耳を貸してくれるモノばかりが
支えに成る訳ではなく
耳を貸さないモノが居ることが
救いに成ることも在る。

この世界は
どこまでも優しい世界。

どのような
生き方も在り方も
規制を逸脱することなければ
その多くは目を瞑られ
この世に在ることを
認められている。

そんなこの世界で
自らと云う存在が
認められ理解され
赦されていることに
気付くことが適わない者は

欲深過ぎる者だろう
自分本位、自己中心的に
自意識過剰に、自己主体に
囚われたまま

自分とは違う存在を
今の自分が認めることも
理解することも出来ず

今、ソコに
自分とは違う存在が
この世のソコに在ることを
赦せずにいる

そんな今の姿、姿勢
在り方が浮き彫りで

その姿はまるで
磔獄門の刑に合い
今にも業火に焚べられそうで
また、激流に放り出されて
しまいそうな想いを
抱えているかのように

必死な形相をたたえ
目が合う者を探し
目が合えば呪い
取り憑いてやろうと
しているかのように映る。

子供が己の意志に関わらず
拐われてしまった。と
危惧する親も

今、儘ならぬ想いを抱え
自業自得、因果応報
誰かや何かに
甘えすがり期待し
何かを求め欲するモノの
形相は皆、同じような
モノなのだろう。

己の想い、気持ち
都合、事情、立場
主義主張に獅噛み付き
己の欲に流されず

前のめりに成らず
後を追うような真似をせず
そんな時ほど
地に足つけて

自分とは違う存在の
この世での
そんな時の在り方を
貴方が回顧出来るなら

後の貴方の選択に
もう迷いもなくなって
誰が付け入る隙もなく
貴方のこの世のソコでの
姿勢は定まって

いつでも貴方はもう
一人ではなく
多くに支えられ
今、そのように在れる
今の自分を知れるだろう。

この世にて
貴方が、出会うのは、皆
貴方自身とは違うモノ。

意気投合しようが
ウマが合わないように
感じようが

そんなことは
貴方が、この世のソコで
その者に、接する在り方に
響くことが、可笑しい。と

いつか、
気付ける日がやってくる。