王様の耳は驢馬の耳 | 王様の耳はロバの耳

王様の耳はロバの耳

普段口には、しないで
済んでいることを
こっそりと、呟いて…

人は、誰もが
愚かしくも、
あまりにも、簡単に

与えられ具えていた、
徳や尊厳を自ら失くし
迷ってしまうことを
私が忘れぬ為に書く
普段は口にしないこと。


誰もが、過ちを
示唆されているのにも
関わらず

同じ過ちを
犯してしまう。

自分という存在が
今、どのように
この世のソコに
存在しているのかを

自らがこの世のソコで
何かしらの欲を
抱いてしまっては

それが大元の過ち。と
示唆されているのに
関わらず

自らが欲のために
他ならぬ

この世のソコで今、
己が、どのような者として
今、ソコに
存在しているのかを
誰もが、見誤ってしまう。

自らが、欲を持つ程に
自らが、欲が膨らむ程に

今、この世のソコに在る
自分という存在が、今、
どのような者として
存在しているのかを

誰もが、自らの欲のため
見誤り、見損ない

自らが、この世のソコで
在りたいと願う
その在り方から今、
外れる行いに走ってしまう。

自らが抱える
その欲を他者に
知って貰おうとする程に

誰もが、誰もが
誰もが、皆が
同じ過ちを繰り返す。

全ての大元は、
貴方の欲。

貴方が、この世で今
儘ならぬ想いを
抱えていることも。

貴方が今、
抱えている
何かを求め止まない
その想いを執着を

人は欲と呼ぶけれど

それは欲というよりは
示唆されていた
過ちを、
貴方が軽んじ
欲に感けた報いだろう。

この世のソコに
今、そのように
存在している、
今の貴方が

この世のソコで
幾ら、誰かや何かに向けて
泣きながら
憤ってみせようとも、

貴方が、今、
この世のソコで
そのように
成っていることを

誰かや何かに
責任転嫁したくても

そんな想いを抱えることが
大元の過ち。

この今生にて
折角、人として
生まれることが適ったのに

人語を操りながら
自らの身の振り方すら
分からなくなってしまう程

自らが欲に感けては

今の、自分の境遇を
幾ら、呪ってしまおうが

救ってくれぬ
誰かや何かに焦れ
怨み呪ってしまおうが

そんな過ちを
自らが、この世にて
犯すことを
己に赦してしまっては

人は誰もが
自らの欲が妄念に
独り侘しく寂しく
孤独な心細さ抱えたまま
囚われて

今、この世のソコにて
自らが、どのような者として
健在しているのか

己自らが弱さ、
至らなさ、
恥ずかしき
己が欲の存在に
気付くこと敵わずに

己が弱さに荷担して
己が過ち、
己が欲を恥を
自らが、この世のソコで
前面に押し出す真似をして

自らが欲に溺れ
己が妄念に絡み取られるように

この世の今生、
今、ソコに在る
今の自分に足りれずに

自業自得
因果応報に
己自らに鞭打って
苛み続けてしまうのだろう。

なんて
もったいないことか。

人という存在、
その誰もが過ちを
その恥に

気付けることの
有り難さを

これほどまでに
示唆され思われ

貴方が幸せを、
救われることをも
願われているのに

どれだけの者が
「欲」の実態を
知れぬまま

人として生まれた筈の
今生で
独り侘しく寂しく
孤独な迷子に成るように

自分の在り方を
見失ってしまうのだろうか。

何故に?と
問うだけ野暮なこと

人というモノは皆
愚かしく、情けなく
不甲斐なくて、我儘で

そんな甘えた心を
持ったままでは
自分さえも救えない。

そんな生き物。
そんな哀しき習性を
有している生き物なんだ。

同じこの世に在る動物に
「自分の死を見つめる動物」と
人が呼ぶ、バビルサという
生き物が居る。

そうした哀れな生き物を
哀れみ寄り添う時に

人は共感、同情し
自らも、また今
死を見つめることが出来

今、ココにこうして
自分が在れることが大切と

自らがこの世で
出会った数多への
想いを自ら担い

この世ソコに
今、在る
己が在り方を
自己責任もって
調えることが
敵うのだろう。

己が欲に勝るのは
己が他を慈しむ想いだけ

他がために
焦れ灼かれてしまうなんて

それは欲という
己が犯した過ちと

気付いても
知ることが適っても

自らが何かを
その背に担えぬまま

他者に甘える想いを
有したままでは

まるで煉獄を
彷徨うように
自らを苛み続けて
しまうのだろう。

いつか本当に
他者のことを
想うことが適ったならば

人は大元の過ちが
「欲」と
恥を知ること敵うのだろう。

そうして、また
示唆されてゆく
紡がれてゆく

後世に後世に
人の想いが紡がれて

この世界に
こんなにも
わかりやすく
溢れている。

生きとし生けるものが
幸せでありますように。