28・8・27

 戦後もう七〇年も経過して戦死した将兵の遺骨を本格的に収集(嫌な言葉)するということになって作業が進められているようだが、ソ連抑留者全国唯一の会・全国強制抑者協会の会長として当初からこの問題に取り組んで来たものとして、どうしても一つ皆さんに申し上げたいことがある。

 というのは、私も抑留者の一人として現地の状況を承知しているが、亡くなった人一人一人を埋葬し、墓票を経てていたところはまずなく、殆んどの収容所では、用意のいいところでも夏のまだ凍っている大地に大きな穴を掘っておき、遺体は裸にしてほうり込んでいたのである。

 そういう墓地もそのまゝ機械でならされて平地にされたり、ロシア人の墓地に変えられたり、上に工場を建てられたり、今や森林になって墓地とすらわからないところも少なくない。

 抑留された将兵六〇万人の一割は飢、発疹チフス、T・B などで死亡し、その死亡者六万人の名簿も平成三年ゴルバチョフ大統領来日の際結ばれた日ソ協定で日本側に提出されることになっているが、まだ二万人の名簿が渡されていない。

 日本から、毎年遺骨の収集に出かけていて今まで約二万体の遺骨は持ち歸っているものの、誰の遺骨かをDNA鑑定で努力しているのにも拘わらず、判明しているのは千体未満であって、不明のものは千鳥ヶ淵の墓園に安置されている。調査は鋭意努力をされているもののまず殆んどは誰の遺骨やら判明できないでいる。判明しているものの中でも遺族が判明しないものもあり、又引き渡しを拒否されているものもある。

 このような状態のまま維移すれば、今迄は現地を多少知っている遺族がいたが、それも亡くなる、まずこれ以上の収集は不可能に近いし、又、假に日本に持ってもどう処置していいか、方針がきまっていない。

 一案は、シベリア以外南方戦場各地からの遺体も合同しておまつりをする立派な無名戦死の墓でも何処かに建立して慰霊をするしか、ないのではないか。

 靖国神社問題とは切り離して、そういうことでも考えて実行して貰いたいと思っている。

 今次大戦の死亡者全体の合同墓地や慰霊碑の問題もある。破れたからといって、何もしないで放置しては済ませられないだろう。

 至急検討のための委員会でも作って政府としての処理方針を決めて貰いたい、と思っている。

      28・8・27

 具体的に実情を書いてもいいが、差支えがあるといけないので、ボカシて筋の話にしておきたい。

 ことは、例えば入場料一人千円の券を買い損なったがどうしても入場したいというので、例えば三千円で他人から(まあ普通はいわゆるダフ屋)から買ったとする。訴える人があって、裁判所は違法であるとして、その取引を認めないことが起った。売りつけた人間を違法としたのである。

 前から、私は、何故高く売りつけたらいけないのか、よくわからなかった。物の売買である。どうしても欲しい人が、表示価格の何倍の金を払おうと一向に構わないではないか。私も後楽園球場でダフ屋にふっかけられたことがある。私は、既に入場券を持っていたから、買う必要もなかったが、どうしてもこの巨人阪神戦は見たい、切角来たから、例え何倍しようと買いたいというなら、買わしたらいいではないか。不当な利益をダフ屋が手にすることはおかしい、ということかも知れないが、そんなことは日常茶飯事いくらでもあるのではないか。

 魚や果物にしても、仕入れの何倍にも売っているではないか。古本屋では稀覯本は何倍にでも売っているではないか。一ケ一万円もする西瓜もべら儲けではないか。あんな二、三万円で古道具屋でホコリを被っていた茶碗を一〇〇万円で売るとは何だ。

 売買は自由であり、価格も自由であるのが、現代社会の原則ではないか。取引を停止させたり、価格の訂正をさせたりする必要はないどころか、一体何の権限、理由でそうする必要があるのか。

 要らなきゃ買わなきゃいい、高過ぎるなら値切ればいい。皆が買わなきゃダフ屋も仕事にならない。

 だから、目くじら立てて取締りに狂奔をする必要はない、と思うが、如何か。

 その代わり、売買による利益はしっかりおさえて、税金で取り上げたらいいのではないか。

   28・8・2

 京大の「文学部国史学科」で学び、岡山大学など関西の諸大学の教授をした直木君は旧制一高の同期生であって、ふとしたことから彼の何冊かの著書を頂載した。クラスは違っていたし、又学校の授業を大いにサボっていた私とは在学中殆んど相まじわることはなかった。

 その彼の著作の一冊を読んで、学者とはこういう人を指すのかな、と思う程真面目な、又行き屆いた文章に感心た。又、テーマのせいもあるのか大へん読み易かった。

 同年代に生き、戦争中それぞれの苦しい生活を記したこの一冊は一気に読んだ。 

 あの頃の世の中のことをいろいろと思い出し、又同じような悩みを味わったことを改めて知った。