田中さんが国連総会かGセブン(?)かで演説することになったことがあった。日本語でしゃべって、通訳と言うのが相場だ、と皆思っていたが、田中さんは何を思ったか、英語でやると言う。

 サア、大へんだ。まず原稿を英語に直して、それをマル覚えをしよう、というのである。

 師匠は、英語が日本語よりうまい、という柏木財務官であった。

 英語で吹きこんだテープを毎日聞いて、それを丸覚えする努力が始まった。省内の関係者はハラハラしながら興味を持っていた。

 いよいよ、その時が到来した。アメリカからは村上為替局長の電話が入った。彼は例の調子で、半ひゃかし、半ば喜び声で、「パサブル」でしたよ、という。大臣はわれわれのキャップである。アアよかった、と皆喜んでいた。

これには、その次がある。評番がよかったのに気を良くした田中さんは、晩さん会にあと、俺の演説はよかったらしく、とにかく、議長のジャパンという言語が三回も聞こえたよ、という。御機嫌であった。

何分かかったかしらないが、とにかく演説を丸おぼえで覚えてしゃべるのは、田中さんといえども大変だったに違いない。

今でも村上局長のうれしそうな「パサブル」でした、よというアメリカからの電話の声は、忘れられずに耳に残っている。「パサブル」いい言葉である。

全国強制抑留者協会の会長として、モスコウへは二十数回出かけた。

ゴルバチョフ大統領が来日した際、結ばれた日ソ協定の主な条項は、日本人抑留者名簿の引き渡し、墓地の整備、遺留品の引き渡しである。どれも充分に履行されていないので、関係各省庁の担当官に遭って、督促するのが、主たる任務であった。

モスコウも昔のパリに似て中核となる市街を段々と拡がってきたようになっている。

街中は汚く、店も少なく、手製の衣類や食物を抱えて道の両側に女性が並んで立っているのが、街の人々の生活の苦しさを示しているようであった。プリンス・アルバート通りには小さな食物店や古物を売る店がいくつも思い思いに並んでいた。ところが、次第にヨーロッパの一流の店が出店をするようになって、街の姿がパリやベルリンなどのようになり、物売りの婦人の姿はなくなり、変わってカジノの店が、いくつも増え、プチ・ラスベガスと言われる程の歓楽街となっている。

街には口紅を濃くつけたお姉さん方も、これ見よがしの姿で闊歩する、という変わりようであった。

ところが、このプチ・ラスベガスも一夜にしてなくなった。プーチンの指令だ、と言われていた。三、四年前であった。流石独裁者の国は違うものだと感心したが、又、モスクワに行く楽しみが減って、何だかつまらなくもなった。

もともと、日本から出征した将兵の身上書は各県の兵籍名簿(戦災を恐れてコピーを松代の大本営に置いてあると聞いているが、一部欠けているものもある、という話である)に載っているので、日本側では亡くなった将兵の人名はわかっているが、それらの人々のうち亡くなった人達についてのロシアにおける消息がよくわからないのである。ソ連は十五か国に解体したし、その間の連絡が悪くなっていることも、消息の分からなくなっている原因だとも思われている。

遺骨は二万柱近く内地へ送られているが、DNA鑑定が進まず(わかっているのは千柱ぐらい)今後、日をかけても、全体が解明することは不可能と思われる。

モスコウへは出かけたので先方の担当官も顔なじみになったが、それで作業が進んでいるとも思われない。

サンクトペテルブルクにはも一度行きたいとは思っていたが、どうも行けそうもない。エルミタージュなどは、も一度見る価値がある。

石油の大幅値下がりで、ロシア経済もかなり影響を受けたと思うが、かつての大国はやはり大国の姿を今後も保ち続けて行くのであろうか。

   28・9・17

 司馬さんの興味をひいたいろいろな事象についての雜文的印象記で、それなりに楽しかった。

 森羅万象。あゝ、そうかと思わせられた事柄も出てきて面白かった。