全国強制抑留者協会の会長として、モスコウへは二十数回出かけた。

ゴルバチョフ大統領が来日した際、結ばれた日ソ協定の主な条項は、日本人抑留者名簿の引き渡し、墓地の整備、遺留品の引き渡しである。どれも充分に履行されていないので、関係各省庁の担当官に遭って、督促するのが、主たる任務であった。

モスコウも昔のパリに似て中核となる市街を段々と拡がってきたようになっている。

街中は汚く、店も少なく、手製の衣類や食物を抱えて道の両側に女性が並んで立っているのが、街の人々の生活の苦しさを示しているようであった。プリンス・アルバート通りには小さな食物店や古物を売る店がいくつも思い思いに並んでいた。ところが、次第にヨーロッパの一流の店が出店をするようになって、街の姿がパリやベルリンなどのようになり、物売りの婦人の姿はなくなり、変わってカジノの店が、いくつも増え、プチ・ラスベガスと言われる程の歓楽街となっている。

街には口紅を濃くつけたお姉さん方も、これ見よがしの姿で闊歩する、という変わりようであった。

ところが、このプチ・ラスベガスも一夜にしてなくなった。プーチンの指令だ、と言われていた。三、四年前であった。流石独裁者の国は違うものだと感心したが、又、モスクワに行く楽しみが減って、何だかつまらなくもなった。

もともと、日本から出征した将兵の身上書は各県の兵籍名簿(戦災を恐れてコピーを松代の大本営に置いてあると聞いているが、一部欠けているものもある、という話である)に載っているので、日本側では亡くなった将兵の人名はわかっているが、それらの人々のうち亡くなった人達についてのロシアにおける消息がよくわからないのである。ソ連は十五か国に解体したし、その間の連絡が悪くなっていることも、消息の分からなくなっている原因だとも思われている。

遺骨は二万柱近く内地へ送られているが、DNA鑑定が進まず(わかっているのは千柱ぐらい)今後、日をかけても、全体が解明することは不可能と思われる。

モスコウへは出かけたので先方の担当官も顔なじみになったが、それで作業が進んでいるとも思われない。

サンクトペテルブルクにはも一度行きたいとは思っていたが、どうも行けそうもない。エルミタージュなどは、も一度見る価値がある。

石油の大幅値下がりで、ロシア経済もかなり影響を受けたと思うが、かつての大国はやはり大国の姿を今後も保ち続けて行くのであろうか。