29・5・22

 よく人が言う、夏に生まれたものは冬は寒がりだ、と。本当にそうだな、と思う。七月生れの私は冬は嫌いである。

 それに、私は、戦後二年余ロシアのラーゲルで暮した経験がある。寒いと、いったようなものではない。冬は、あちこち氷りつく厳しさである。尿や大便が一番こまる。衣服にさわっても融けないからいいものの、一辺くつつくと、凍りついて落ちない。それに恐いのは凍傷。私は、一回だけハバロフスクの駅のプラットフォームで食料を扱っている時に凍傷にかかり、左の小指の感覚がなく、白い棒のようになった。さあ、ここであわてても仕方がない。乾いた木綿の手拭いで小一時間ただただこすって、やっと血の気が出てきて、感覚が戻って来た。急にあたためたりしたらくさって、果は、切り落とさなければならなくなると、これは、教えられていた。なまけて指を失った人はいくらもいる。一番ひどい人は十本の指のうち九本を失い、残り一本を泣き出しそうな顔で、いつまでも見詰めていた。どう、なるものでもない。

 もっとも、作業に出ても、つとめて働かないように、要領よく立ち回っていたひとであることは皆見て知っている。因果応報であると、こっそり言う人もいる。働いた方がよい、とは知られていたのに。

 その代り、春の嬉しさ。ボルガの厚い氷も融けて、車も流れなくなる。野の草も、花も一斉に開く。昔読んだトルストイの小説を思い出す。正に春の喜びを感じる。乙女たちは、窓を開いて歌を唱う。二重奏、三重奏、どうして彼等はやすやすと、声が和するのだろう。

 これで冬の寒さも忘れたようだ。

 

 五月一日の朝日の朝刊のこんな「カコミ」の記事が目に入った。

 「東京の都立高校の約六割が、生徒が髪の毛を染めたりパーマをかけたりしていないか、生まれつきの髪が見分けるため、一部の生徒から入学時に「地毛証明」を提出させていることがわかった。

 第一そんなものを出させてどうするつもりなのか疑問に思った。

 理由は「多くの都立校は校則で髪の染色やパーマを禁止している」からだという。又背景には「生徒とのトラブルを防ぐほか、私立校との競争が激しく、生活指導をきちんとする狙いもある」という。

 どうもよくわからない。

 昔は、校服をきめている学校が普通であった。メーカーを指定していたかどうかは明らかではないが、少なくとも何処の高校のせいとであることはハッキリわかる立前であった。それならまだわかるが、髪の毛の色ばかり規定してどうゆう意味があるのだろうか。

 勿論その頃も制服は中学生までで、高校以上はさまざまであった。今もそれであってはどこが悪いのだろうか。

 そんなに規制したければ、髪の毛の色を言う前に、校服でも規定し、着用をやかましく言ったらいい。

 われわれが、旧制の高等学校(専門学校)の頃は、中学生の時の制服をそのまゝ着ている者、和服に袴の恰好の生徒も少なくなかった。

 そうでなくとも、近頃学校の先生は授業よりも、報告ものに追われ、超過勤務をする先生が少なくなく、過労で倒れる人も少なくないという新聞記事をよく見る。

 学校に限らない。各省庁が関係先に資料を求めることが余りに多くて、肝心な仕事がおろそかになる例をよく耳にする。

 労働基準関係もそうだ。ちっとぐらい滑ったり、転んだりしたぐらいのことを一々報告をとって、一体どうするとゆうのだろうか。

 私は、過労で死ぬ人が増えているなどチョット信じ難いと思っている方であるが、重複したり、意味のない報告などは出来るだけ減らすことを各省庁、各自治体も謹んでもらいたいと思う。過労で倒れる人が排出していることが事実なら、まずどうでもいいような報告ものを思い切って減らして貰いたい。

 私が大蔵省主計局に勤務していた頃は繁忙期の超過勤務は月二〇〇時間を超えることが多かった。と言っても手当は予算の関係で月一律の六〇時間までとなっていた。それでも仕事第一と考えていたし、春四月予算が成立してからは、皆で相談して、できるだけ息抜きをするようにしていた。

 超過勤務を命じたとして上司の処罰を考える前に、如何にしたら、そう言っては叱られるかも知れないが、報告ものなどの事務を減らすことを検討して貰いたい。

 又、仕事が多すぎて、過労で死ぬようなことは、そうあるものではない、と思うが、間違いか。間違いでないなら、少なくとも皆で協議して、仕事を減らすことに努力してみたらどうだろう。

 

 29・4・4

 今、新聞などを賑わしている話題で、何とも小さくて情けないように思うのは、安倍総理と夫人などをめぐる、言ってみればスキャンダルめいた話である。

 しかし、ちょっと考えてみれば、あちこち紙面を埋めるような話だろうか。世の中のことは何も彼もキレイに割り切れるようにはならないことは、私のように九〇年以上もとにかく生きて来た人間には、いくらかわかって来たつもりである。

 公人と私人との境のどうの、こうのと言ったって、総理のような立場にある人の行動をどっちかにキチッと割り切れるものでもないし、割り切ろうと努力することにどれだけの意味があるだろうか。

 金が動いた、百万円をお祝いにあげた、それが本当か、嘘か、も問題となっているようであるが、いってみれば、そんな程度の金がどう動いたからと言って、所詮天下がひっくりかえるような話にはならないのではないか。

 そもそもそういう考えがいけないのだと言われれば、然っているより仕方がないが、そんな気がしてならないのである。

 もっと大事な事の眞否を究明するというなら、敢えて反対するものではないが、今のようなチッポケな泥仕合はする価値はないのではないか。時間のムダ使いに終るのではないか。