安部夫人がらみで、今世間を賑わしている事件がある。恐らく、実体は大したことはないのだと思う。ただ、関連して名の出ている人が時の人である。多少騒がれても仕方がないかも知れない。

 夫婦と蜼も、お互い相手の財布の中まで見ているわけではない。それぞれのつき合いというものもあろう。

 ただ百万円と言えば、少額ではない。話しぐらいあったかも知れない。しかし、そんなことがなかったとなれば、事実なかったのであろう。

 何とも、そう言っては何であるが、うさんくさい人物が登場してくるので、部外のわれわれにはよくわからないが、とにかく天下の大事でないことだけは事実であると思う。

 世の中、それ程ヒマではないと思うが、ヒマなのかな。

 

 家人ともよく話をしているが、世の中景気が悪くなると首都高が空いてくる。反対に良くなってくると混んでくる。景気の一つのバロメーターだなと思う。理由はいろいろあるだろうが、景気が悪くなってくると、人も物も動かなくなる。車に乗るところを電車やバスに変える。車に乗っても料金のかかる首都高は使わない。当たり前と言えば当り前だが、大ざっぱに言ってこの現象にはたしかに景気が影響している。

 

  

 「梅一輪酒三合ごろ寝かな」

 俳句はすきである。誰かについて学ぶ、という気がおこらないまゝに、俳句の本を読んだり、思いついたりものをその辺の紙に書いたりするだけである。 

 俳句の会があちらこちらにあるのは聞いている。酒でも飲みながら、他人の句をあそこを一寸こう直した方がいいなとか、俺だったらこう書くなどと思いながら聞いているなどはいいと思うが、人の読んだ句を一寸こう直したら良いと赤筆を加えたり、いい句を選んで天地人か何か知らないが順番をつけたりするのはなんとなく気が進まない。

 芭蕉の「奥の細道」は中学校の教科書で読んで以来、なん回となく目を通している。芭蕉の本体は幕府方の忍者であるとか、何とかいうことをあちこちの本で読んだりしたが、私には関心のないことであって、ただいい句はいいと思って味わえばいいと思っている。

 「俳諧七部集」も読んで、連歌の作り方もいくらか学んだが、自分で参加して作ったことはない。

 中学校で国語の先生から「この土手に登るべからず警視庁」もちゃんと十七文字で俳句になっているよ、と本気かどうかわからないが話を聞いたのは忘れない。

 私は、川柳も好きである。「柳多留」を始め、川柳に関する本を神田のある古本屋で買いしめたことがある。川柳のしゃだつさ、わいざっさ、一般の俳句と又違った味があるものである。時に、ふっとその中の一句を思い起こして、一人でにやにやしてみたりしている。

 この短い詩(?)が外国でも真似られて作られているという。外国語でもあるようである。それはそれでよかろう。

 然し、気にくわないのは十七字にこだわらいあい俳句である。私は、十七字に押しこめているところに俳句の良さ、面白さがある、と思っているので、たまに出来る字あまりは許すとしても、初手から何字になってもいいというように思いながら作られるような句は俳句と言わないで欲しい、と思っている。