え~と、警察じゃなく病院に行こう。
これが世間のオウムに対するイメージなのか。
おかしさの種類が違うのだが、神秘体験と幻覚は別物である。
神秘体験を否定するという事は、ヨーガにおけるシッディや仏教における神通までも否定してしまう事になる。
神秘体験というものはその時だけのものではなく、いつでも起こる日常的なものである。
オウムにあった上流師や到達光師は完全にそれらを達成した者たちであり、いつでもダルドリーを起こせるしいつでも光に包まれていた。
天上の音楽はそれを聞いた事がない人には信じられないかもしれないが、現象界の音とは美しさの次元が違う。
アストラルの世界は色ではなく光に満ち溢れており、全てが光であるためにどこにも影がない。
光があれば闇があるというのはあくまでも現象界での話であり、アストラルにおいてはどこにも闇はない。
闇というものは存在せず、そこには光がないだけなのだ。
ヨーガ行者だけでなく、釈迦牟尼やパドマサンバヴァは空を飛んでいるし、日本でも神道において飛行術は伝承されている。
自分に能力がないからといって、他人の優れた能力を否定するのはおかしな話である。
なんでこんなおかしな話になっているのか不思議だったのだが、このあたりでその理由がわかった。
この作品はひかりの輪の宗像の経験を元にしているからだ。