日曜日の新聞の真ん中あたりに、新刊書がいくつか紹介されている。
その中に興味深い一冊を見つけた。
「中動態の世界」
これがその本のタイトルである。
自分の責任だと思う人は能動。
他人のせいだと思う人は受動。
現代人は「能動/受動対立世界」のなかにどっぷり漬かっているために、自分を責め、他人を責め、息苦しい日々を送っている。
本当はどちらだと断定することなど出来ないのだが、責任の所在をはっきりさせなければならないという観念に取りつかれてしまっている。
しかし、古代ギリシャをはじめかつての多くの言語には、能動態でも受動態でもない「中動態」というものがあり、当時は意志や責任という概念もなかったという。
面白い。実に面白い!
これこそまさに、自と他の区別をなくすではないか。
日本語もかつてはそうであり、能においては「思い出」という考え方を取る。
思い出とは、身体に宿った思いが外に出てくる事を言う。
そのあふれ出る思いを止めることは出来ない。
その思いによって人は狂気となり、思いが鎮まれば狂気もやむ。
そこには、善も悪もない。
こういう本こそ。現代人に必要なのではないかと思う。