もう何度も同じ事を書いているので、いい加減面倒くさくなっているのだが、もう一度おさらいをしておこう。
真我独存。
これが原点であり、出発点である。
なぜなら、解脱とは、真我独存の事だからである。
したがって、真我独存を否定した、あるいは無視、軽視した解脱のための修行というものは有り得ない。
全ての修行は、真我独存へと向かい、真我独存へと通じている。
そして、逆に言えば、真我独存へと向かわないものは、全て修行ではないし、修行者ではない。
これがオウムの教義であるのだが、それはオウムのオリジナル、麻原のオリジナルということではない。
なぜなら、それはヨーガ根本経典に書かれている事であるからだ。
一般的に考えるならパクリであり、オウムよりに考えるなら真理はひとつということになる。(笑)
真我独存がスタート地点であり、そこから「無明ありて行あり」が始まる。
いわゆる魂の落下のプロセスである。
ここで何が落下するのかというと、それは真我ではない。
落下していくのはエゴである。
正しくは、無明ありて行ありでエゴが誕生し、宇宙が誕生する。
しかし、真我は独存なのだから、誕生したものは全て存在していない事になる。
その通り!
それらは全て幻影なのだ。
これが一切皆空である。
真我は独存であり、それ以外の全ては存在しない。
これが教義の原点であり、出発点である。