カルマの法則と輪廻転生12 | 法友(とも)へ

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もう何度も同じ事を書いているので、いい加減面倒くさくなっているのだが、もう一度おさらいをしておこう。

 

 

真我独存。

 

これが原点であり、出発点である。

 

なぜなら、解脱とは、真我独存の事だからである。

 

したがって、真我独存を否定した、あるいは無視、軽視した解脱のための修行というものは有り得ない。

 

全ての修行は、真我独存へと向かい、真我独存へと通じている。

 

そして、逆に言えば、真我独存へと向かわないものは、全て修行ではないし、修行者ではない。

 

 

これがオウムの教義であるのだが、それはオウムのオリジナル、麻原のオリジナルということではない。

 

なぜなら、それはヨーガ根本経典に書かれている事であるからだ。

 

一般的に考えるならパクリであり、オウムよりに考えるなら真理はひとつということになる。(笑)

 

 

真我独存がスタート地点であり、そこから「無明ありて行あり」が始まる。

 

いわゆる魂の落下のプロセスである。

 

 

ここで何が落下するのかというと、それは真我ではない。

 

落下していくのはエゴである。

 

正しくは、無明ありて行ありでエゴが誕生し、宇宙が誕生する。

 

 

しかし、真我は独存なのだから、誕生したものは全て存在していない事になる。

 

その通り!

 

それらは全て幻影なのだ。

 

これが一切皆空である。

 

真我は独存であり、それ以外の全ては存在しない。

 

これが教義の原点であり、出発点である。