中川の手記13 | 法友(とも)へ

法友(とも)へ

ブログの説明を入力します。

中川の目の前で、村井はDFを井上に渡し、井上は上九を出ていった。

中川も村井もワークが忙しかったため、DFはしばらく井上に預けられたままとなっていた。

 

ここが中川と井上の証言に食い違いがある部分である。

 

3月18日、DFは上九に戻り、村井から中川に渡される。

ジーヴァカ棟でサリン製造が行われることになり、遠藤はその薬品が本当にDFかどうかの検査を土谷に依頼、土谷もサリン製造に加わる事となる。

1993年に、DFとIPAからトリエチルアミンを塩基として使い、サリンの合成に失敗していたので、中川と遠藤はDCなしではサリンの合成は出来ないと考えていた。

そこで土谷が考案したのが、DEAを塩基として使用する方法だった。

 

 

世の中に知られているオウムにおけるサリンの合成方法は、実は地下鉄サリン事件の2日前に初めて試された方法だったというのは興味深い。

 

処分しきれずにDFが残ってしまった事にしても、2日前になってようやくDEAを塩基として使用する方法が確立された事にしても、ギリギリのところで事件が起きる方へ事件が起きる方へと向かって行っているように見えるのは僕だけだろうか?

 

 

土谷がDEAを使った理由は、第7サティアンのプラントでTMPを製造するためのものであり、まだ残っていたからである。

それともうひとつ。

土谷は1994年のVX製造における反応過程で、DEAを塩基として用いて酸を中和させていたのだ。

こうやって、不純物の多い2層に分離した茶色いサリンが、溶媒のヘキサンを合わせて約5L合成された。

 

まあ、これも素人にはよくわからない数字になっている。

 

DFが1L、純度35%のサリンが約5L。

 

小学校の算数を使うなら、純度が35%なら、生成物はおそらく約3Lになるはずである。

 

逆に、生成物が5Lなら、生成されたサリンの純度は20%になるはずである。

 

純度35%が5Lというのは、どう考えても計算が合わない。

 

 

中川の手記によって、オウムにおけるサリン製造の過程がかなり詳しいところまで分かってきたが、それでも後から後から疑問が沸いてくる。

 

これは、2層に分離したサリンが、茶色い層と透明な層でかなり濃度が違ったという事なのではないだろうか。

 

どちらの濃度が高かったのかは分からないが、濃度の高いサリンが撒かれた現場では被害が大きく、そうでなく濃度の低いサリンが撒かれた現場では死者が出ていない。

 

そういう結果になったということなのかもしれない。

 

ということになると、使われた凶器の殺傷力にかなりの違いがあった事になる。

 

まあ、裁判はとっくの昔に終わってるんだけどね。