中川の手記⑤ | 法友(とも)へ

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さらっと書いてあるので行間を埋める作業が大変なのだが、当時すでにサリンを合成することが可能な反応釜が存在していたということだ。

 

それがステンレス製だったのか、合成樹脂製だったのかは分からないが、その反応釜を使えば誰にでもサリンの合成が可能ということになる。

 

 

オウムでは、最初は実験室で三口フラスコを使って、サリンを合成した。

 

製造の過程で、ガラスは溶けてしまうので、ガラス以外の実験器具が必要だったわけだが、現在ではハステロイの反応釜もあり、事件当時よりもより容易くサリンの合成が可能になっているのだと思う。

 

ということになると、テロを未然に防ぐためには、材料となる化学薬品、その治療薬、そして反応釜の三つの流通を監視する必要があるということになる。

 

 

次に、ここでの重要なポイントがある。

 

日本の警察は、第7サティアンのプラントが最終段階まで稼働してサリンが製造されたとしているが、それは間違いであるということ。

 

アメリカでは正しく報道されているらしいのだが、なぜか日本では間違ってしまっている。

 

 

第7サティアンのプラントが稼働したのは、第3段階までであり、サリンは作られていない。

 

当たり前な気もするが、サリンプラントは日産2トンである。

 

もしそれが稼働していたのなら、ものすごい量のサリンがあったはずである。

 

もちろん、そんなものは見つかっていない。

 

警察はこの矛盾をどう説明するつもりなのだろうか?

 

 

しかし、この反応釜によって、サリンが作られたのは事実である。

 

第7サティアン付近の土の中からサリンの残留物が見つかったのは、この反応釜によって合成されたサリンによるものと考えることが出来る。