書き下ろしということで非常に読みやすく、分かりやすい内容となっている。
何より、中川が頭のいい人物であることが大きな要因なのだろう。
話が長くなることなく、必要な要点が簡潔にまとまっている。
この手記により、今まで曖昧だったことや、間違った認識を持っていたことがいくつか明らかになった。
裁判記録というものは事件をメインにして扱っているので、情報がぶつ切りになり全体の流れがよく分からない。
雑誌やネットによる記事は、取材しているのが化学の素人であるために、要点を外しやたらと謝罪ばかりをさせ中身が薄い。
化学の専門家であるトゥー博士の書籍でさえ、抜け落ちてしまっている情報がかなりある。
今回の手記は、中川は書きたい事を全部書いたのだろう。
全部で6ページという多くはない分量だが、その中身は非常に濃いものとなっている。
実務を担ったのは土谷であり、実験室規模でサリンの製造を試みた。
化学薬品の入手については遠藤が担当。
1993年8月、土谷は亜リン酸トリメチルを出発物質とする4段階の製法で、20gの合成に成功する。
(後に5段階の製法となる。)
同じ頃、教団は第7サティアンのサリンプラントの建設を開始。
日産2トン、合計で70トンのサリンを製造することが決定する。
数百トンの化学薬品を入手する必要があったため、新実が中心となりダミーの薬品会社を設立した。
さらっと書いてあり、中川が直接関わっていない部分であるのだが、土谷は最初の成功までに1992年12月から1993年8月までという、8か月の月日を要している。
サリンは、その製造方法が分かってしまえば、中川が言うように誰にでも作れる。
だが、この製造方法を最初に見つけるのは容易ではない。
8か月の間、土谷はいったいどれほどの実験を繰り返したのだろうか?
サマナ経験があれば分かると思うが、月間200時間、300時間の残業など当たり前の世界で、8か月もの間、たった一つのワークだけをやり続ける。
それがどれほど大変な事か。
これはもう、ノーベル賞クラスの研究者と同等かそれ以上の努力という他はない。