それにしても土谷は、どうやってあんなにもたくさんの毒ガスを作り出すことが出来たのだろうか?
化学式をぼんやりと眺めながら、ふと思った。
なんとなくだが、これは詰将棋に似ている。
そう感じた。
メチルホスホン酸ジフルオリドとサリンは、かなりの部分が似かよっており、全く別の物というわけではない。
つまり、詰将棋で言うなら、メチルホスホン酸ジフルオリドが問題図であり、サリンが詰め上がり図の関係になっているのだ。
イソプロピルアルコールやジエチルアニリンといった持ち駒を使い、温度・圧力・時間という手順を繰り返し試す。
そこへさらに、中和、精製という手筋を加えれば、より確実に答えを出すことが出来る。
土谷はおそらく詰将棋の達人のように、メチルホスホン酸ジフルオリドという問題図を見ただけで、詰み上がり図であるサリンに、頭の中だけで当たりをつける事が出来たのだろうと思う。
そして実際には、実験器具という盤駒を動かしてサリンを製造した。
盤駒を動かしていいのなら、詰将棋など簡単だ。
ましてや詰め上がり図が分かっているのなら、何をか言わんやである。
中川の言うように、サリンはある程度の化学の知識があれば誰にでも作れるのだろうと思う。
ただしそれは、オウムのサマナのように、極限のワークという条件が付く。
実験が一度で成功などするはずもない。
条件を変え、成功するまで気が遠くなるほど繰り返す必要がある。
ノーベル賞級の科学者であれ、超一流のアスリートであれ、努力するのは当たり前の話である。
その一般人には不可能な桁外れの努力を、オウムのサマナたちは平然とやってのけるのだ。
ある程度の化学の知識、万一の時の医療スタッフ、極限のワーク。
この三つがそろった場合にのみ、サリンの製造が可能となる。
オウム事件から20年。
事件の再発を防がなければならないと声高に叫ぶ人たちがいるが、僕は全く心配していない。
なぜなら、オウムにこの三つが揃うことはもうないからだ。
その証拠に、20年間何も起こってはいない。
しかしいつか、この三つを備える集団がどこかに生まれた場合。
もちろん、サリンを製造する能力を持つことになる。