さらにその翌日。
今度は幹部たちの重大発表が相次いだ。
そりゃあ、誰しも同じことを考える。
ということで、ステージの高い幹部の皆さんが手本を示されたので、サマナたちはそれを見習いだした。
なんて悲しいんだ。
自己の苦しみを他の苦しみとする実践。
そんなの修行者じゃねえよ、などと思ったものだが、このあたりで麻原もようやく異常な事態であることに気付いたらしい。
何度も繰り返すが、生野菜は供物ではない、食料である。
てか、生で野菜を食べる習慣はオウムには無い。
で、この時に麻原は村井に「お前はどうする?」と聞いた。
村井の答えは、
「グルが与えて下さるイニシエーションを拒むことは、私には出来ません。」
だった。
なんて素晴らしいんだ。
村井は狂人である。
人が死ぬことをなんとも思わない極悪人である。
しかし、同じ修行者としては、尊敬せざるを得ない。
供物は全て麻原が修法している。
それがたとえ生のキャベツの固い芯であったとしても、グルのエネルギーが込められている。
そのエネルギーを、上祐や他の幹部たちは拒否したのだ。
自分が苦しくなると、あっさりとグルを捨てる。
それがオウムの幹部たちの姿である。
それは今も昔も変わりはない。
あの当時、僕はまだただのサマナなので、護摩供養から逃げることの出来る立場にはない。
しかし、村井の立場なら逃げることは可能だった。
それでも村井は逃げなかった。
丸ごとキャベツを供養することが苦痛であることを知った上で、それでもそれを受け止めると言い切った。
まさにヴァジラヤーナの弟子の鑑だと言っていいと思う。
麻原の弟子の中で、本当の意味での直弟子は、村井と新見ぐらいしかいないのではないだろうか。
学業優秀な村井と、ちょっと頭の弱い新見とは全くタイプが違うが、グルに対する帰依の強さは他の弟子たちとは一線を画している。
それにしても、村井がすでに死んでしまっているのが実におしい。
オウム事件の全容を話す事が出来る唯一の人物であるというだけでなく、修行者としてどこまでステージを上げることが出来たのか、見てみたかったと思う。