輪廻転生があるというのはひとつの観念である。
そして、輪廻転生がないというのもひとつの観念である。
どちらも単なる観念であり、どちらが正しいとかどちらが間違っているとかというものではない。
そこにはただ、どちらを選ぶかということだけがある。
ここで修行者は論理的に一貫性のある考え方をする。
つまり、この現実の世界があるというのなら、同じように来世もまたあり、当然に輪廻転生があるとする。
逆に、この世界が幻影であるのなら、同じように来世もまた幻影であり、輪廻転生はないということになる。
とても分かりやすい。
ところが、一般人はこの様には考えない。
この世は現実であるとしながらも、来世は無いと言う。
あるいは、輪廻転生は無いと言いながら、この世界が現実に存在すると言う。
一体どういうことなのであろうか?
輪廻転生があるとした場合、ポアのためにはグルとの協力関係が必要であり、秘儀瞑想もまた必要である。
このふたつが無ければポア出来ない。
これがオウム真理教の教義である。
従って、事件の犠牲者をポアするというのは、オウムの教義と完全に矛盾する。
つまり、この部分は方便であると考えることが出来る。
そして、ここでもうひとつ別の考え方がある。
それは事件の犠牲者をポア出来るとするものである。
この場合、グルの説く教義が嘘であり、秘儀瞑想は何の役にもたたない、ただ金を巻き上げるための詐欺であるということになる。
このふたつのうち、どちらでも好きな方を選ぶことが出来る。
まあ、僕の考えでは事件の犠牲者はポア出来ないとするほうが納得できる。
そしてここが、教義を理解するためのスタートラインとなる。
麻原はポア出来ないと知りながら、なぜ事件を起こしたのか?
麻原の言う救済とは何だったのか?
このスタートラインに立っている人を、僕は自分以外には知らないのだ。