教義の基本 | 法友(とも)へ

法友(とも)へ

ブログの説明を入力します。

オウムの教義の基本は、それがオリジナルだということですね。


名前をつけるなら麻原教とでもいうべきものです。



ヨーガや仏教、その他もろもろで使われる言葉が引用されてはいますが、基本的には麻原教とは関係が有りません。


例えば、ポアやヴァジラヤーナという言葉だけをとっても、麻原教と一般的な意味は違っています。


だから、教義を理解する上で必要なことは、麻原教での意味を知っておくことですね。



それともうひとつ重要なことが、オウムの教義にはその本体というべき部分と、カモフラージュのための方便の部分があります。


まあ、ここでいう方便もすでに一般的な意味と違ってしまっていますが。(笑)



オウムの教義をまったくか、あるいはほとんど知らない人は何も感じないと思いますが、ある程度オウムの教義の知識がある人は教義が(というか、教義に見える部分がということですが)矛盾していることに気づくと思います。


これは当然のことで、本体と方便が混在しているからです。


したがって、オウムの教義がどういうものかを理解するためには、どれが本体でどれが方便かを分類しなければならないということになります。



そして、その分類の仕方は人それぞれです。


多分、麻原ならこう言うでしょうね。


「それぞれの弟子達が、それぞれのカルマによって、それぞれの理解をする。」


「そして、それぞれの結果を得る。」



このブログでは、もちろん僕のブログなので、僕の個人的な理解ということになります。


まあ、僕の考え方に同意する人は少ないだろうなと思います。


人間というものは、結局自分の信じたいものしか信じないですからね。