JAMES 1.22-27
みことばを行う人になりなさい。
自分を欺いて、ただ聞くだけの者
となってはいけません。
みことばを聞いても
行わない人がいるなら、
その人は自分の生まれつきの顔を
鏡で眺める人のようです。
眺めても、そこを離れると、
自分がどのようであったか、
すぐに忘れてしまいます。
しかし、自由をもたらす
完全な律法を一心に見つめて、
それから離れない人は、
すぐに忘れる聞き手にはならず、
実際に行う人になります。
こういう人は、
その行いによって
祝福されます。
自分は宗教心にあつい
と思っても、
自分の舌を制御せず、
自分の心を欺いているなら、
そのような人の宗教は
むなしいものです。
父である神の御前で
きよく汚れのない宗教とは、
孤児ややもめたちが
困っているときに世話をし、
この世の汚れに染まらないよう
自分を守ることです。
ヤコブの手紙
1章22~27節
聖書 新改訳2017©
2017 新日本聖書刊行会
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デボーション
(神への奉献)
S.O.A.P.方式
Scripture
聖書を、
Observation
観察して
Application
適用する。
Prayer
祈りを捧げる!
デボーション とは、
個人的な礼拝の時間とも
言われる 信仰の学びです。
S.O.A.P.式で実行すると
次のようになります。
scripture
聖書の記述に基づいて
observation
よく読みよく観察し、
apprication
学び 教わった事を
自分自身に 適用する。
PRAYER
そして、祈りを捧げ、
人が 神様と 深く交わり
礼拝を することです。
どんな方式だろうと、
基本はだいたい同じです。
(記述 スクリプチュア)
聖書の御言葉を忠実に
読み解いて学び、
(観察 オブザベイション)
神様の前で自分自身を
どのようにしたら良いか
冷静かつ慎重に見つめ直し、
(適用 アプリケイション)
日々絶え間なく
悔い改めて、
(祈り手 プレイヤー)
祈り、賛美して
礼拝を捧げながら、
神様と相談しつつ
前に進むことです。
【 聖書の観察 】
ヤコブ1:22〜27
(口語訳)
そして、
御言を行う人になりなさい。
おのれを欺いて、
ただ聞くだけの者
となってはいけない。
おおよそ御言を聞くだけで
行わない人は、ちょうど
自分の生れつきの顔を
鏡に映して見る人のようである。
彼は自分を映して見て
そこから立ち去ると、
そのとたんに、自分の姿が
どんなであったかを忘れてしまう。
これに反して、
完全な自由の律法を
一心に見つめてたゆまない人は、
聞いて忘れてしまう人ではなく
実際に行う人である。
こういう人は、
その行いによって祝福される。
もし人が信心深い者だと
自任しながら
舌を制することをせず、
自分の心を欺いているならば、
その人の信心はむなしいものである。
父なる神のみまえに
清く汚れのない信心とは、
困っている孤児や、
やもめを見舞い、
自らは世の汚れに染まらずに
身を清く保つことにほかならない。
ヤコブの手紙
1:22-27
http://bible.com/1820/jas.1.22-27.
【聖書から教わる学び】
人は天から示されて、
様々な学びを得ます。
この世に生きる上で
意味深く大切な話を
色々と沢山教えられ、
生命の糧になります。
聖書を読むこと、
神様に祈ること、
人に善をなすこと。
そこにあるものは、
希望であり勇気に
満ちた信念です。
神が人類にイエス様を
与えられ、この世界を
愛されたのと同じく、
福音を信じて受け入れ、
悔い改めて清められた
人であるというのなら、
その人の中にも、神様の
無限に力強い愛の働きが
備わっているということ。
愛が大事だと叫んでいても、
本当に人を愛さないならば、
それは鏡に映った自分を見て
すぐに忘れるむなしい人です。
祝福された人になります!
教わった学びを実行するなら、
完成された自由を得て解放され
真実なる無限に力強い神の愛を
この世界にもたらす事が出来る!
弱い隣人を助けるために
働いて、世の悪徳に身を
染めないことも大切。
そして、そのためには、
自分自身が雄々しく力強い
天なる神様の祈りの戦士として
目覚めて立ち上がることです。
【 悔い改め の 祈り 】
神様。私たちが、
天なる父のみ前で
清いものである様に
いつも助けていただき、
心から感謝いたします。
御言葉を与えられて、
単に受け入れるだけでなく
真実に生きる者と
なります様に。
イエス様の十字架で
救われたことを信じ、
その愛と感謝によって
この世界での行動が
自分自身でも出来る様に
導いて下さい。
罪や汚れに染まらず、
全ての悪に打ち勝ち、
誘惑や弱さに陥らない様に
いつも助けて下さい。
主よ。
あなたから教わる学び、
いただいた全ての恵み、
そして
自由をもたらす完全な律法を
一心に見つめて守れる様に
助けて下さい。
父よ。
天のお父さん。
あなたの名前は
世界中であがめられます。
それは、
イエス様があなたを示し、
真実の神の愛を証して
教えてくれたからです。
天の王国も、
地上の全ても、
新しくなる時が
来ようとしています。
聖霊によって導かれ、
癒やしと解放、
励ましと慰め、
憐れみと慈しみを
受けようとしています。
世界中の人々が
罪から目を覚まし
悪から離れ去り
善を望み悔い改める
機会に恵まれます様に。
【 優しくて、強い。】
「あなたって、そんなにハードなのに、
なぜそんなに ジェントルでいられるの?」
「厳しくなければ 生きていけない。
優しくなければ 生きる価値がない。」
by フィリップ・マーロウ
(ハードボイルド探偵物語の主人公)
レイモンド・チャンドラー原作
小説「プレイバック」のセリフより
非常に大きな台風が近付いている夕方。
綺麗な夕焼け空は見えていましたが、
流れる雲は何か不確実な色を帯びています。
それでも心は力強さを取り戻し、
明るく元気に喜び踊りつつありました。
幸せな笑顔を生み出す希望の光が、
たくさんの人の心に見出せるからです!
「日本がトモダチだから助けた!」
というだけのことではないでしょう。
「あなたの隣人を愛せよ」
と幼い頃から教わっていたら、
何を言われなくても自然体で
即時即応に柔軟な行動が可能。
企業や芸能人の支援なんかを、
売名行為とみなしている人は
こんな強くて優しい隣人達を
同じ目で見ているでしょうが。
偽善か、心からの愛による善業かは、
周りの人の心に何が生まれたかでも
判断することは出来るものです。
多くの人が希望を見出し、
多くの人が勇気付けられ、
多くの人が愛を取り戻し、
多くの人が力強い助けを見て、
行動することで自分も何かを
生み出すことができるんだと、
信じられるようになりました。
大切なのは助けを得たなら感謝して、
自分でも人を助けたいと思う気持ち。
天の国は神からたまわるとはいえ、
人の力で作りあげるものでもあります。
古き天と地は過ぎ去り、
新しい天と地が来るからです。
かなり地位の高い人まで、復興作業で
泥んこになって頑張ってくれていました!
司令官クラスほどの人ならば、
普通はこんな泥まみれで 実働行為
(ボランティアの現場作業)なんか
させてもらえるはずもないのですけど。
自分から率先して行動し、
喜び楽しみながら働いて、
困って苦しむ人を励ます。
感動して感謝されるために
行動しているわけではない。
自分たちも命を救われた身だから、
人の命を救いたいと思うのは当然。
イエスは、人の罪と死を買い戻して
本当の平和と喜びと幸せを与えた。
だから、それを信じているからこそ、
行動できるのは当たり前のことだし、
救い主は私たちと共にいてくださる。
どこかの知らない遠いところではなく、
いま、ここに、私たちの中に存在する。
だから、優しくもなれるし強くもなれる。強さも優しさも、完全に神様の恵みだからね。
優しくて、強い人。
それは、色々考えなくても
素早い行動が出来る人。
行動するのに相応しい時、
行動出来る人は素晴らしい。
他人が自分に好意を示すことは、
他人にとっても心からの喜びです。
それは決して、当事者にとって
重荷でもなければ負担でもない。
愛は親切、寛容、慈悲深く、忍耐強い。
愛が心にない人にとって、
愛ある人の愛ある行動とは、
理解しがたい謎の現象でしかない。
同じような出来事があっても
人の心の持ち方次第でそれは
不幸にも幸福にも変わります。
人生に悩みや苦しみは付き物。
しかしそれでも人は常に幸せな
人生を求めて懸命に頑張ります。
どんな色や形をしていても、
人それぞれに生き方は異なり
自分なりの幸せを作り上げます。
神様にとって、人間というものは
最高傑作の芸術作品でもあります。
人間にとって「最高傑作な芸術作品」
といえば、自分の生き様、生き方です。
どれだけ成功したか、
どれだけ結果を残したか、
どんなに報酬を稼いだか、
どんなに利益を儲けたか。
それらはすべていつかは過ぎ去り
古びて滅びる昔話となるでしょう。
新しい天と地がこの世に来る時、
神の王国に入れるのはただ一つ。
どれだけ愛したか。
どれだけ行動したか。
どれだけ救いのための
手助けになったか。
救い主は、イエス様お一人だけです。
人は、その弟子として、福音を伝える
働き手になることを命じられています。
傷を治したり、涙をぬぐい去り、
鎖を解いて自由に解放するのは、
戦争でも友達でも革命でもない。
正しい人として生きることです。
必ず神は手助けしてくれるでしょう。
天の父なる神様は、愛するひとり子
イエスの弟子として働いている人には、
最強なる天使の軍団を遣わされます。
それに比べたら、いくら武力を誇っても、
人間の軍隊にはどんな力もありません。
無限に力強い天の愛は、
有限な人間の力などとは
比較にならないからです。
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マルコ14
さて、
過越と除酵との祭の
二日前になった。
祭司長たちや律法学者たちは、
策略をもってイエスを捕えた上、
なんとかして殺そうと計っていた。
彼らは、「祭の間はいけない。
民衆が騒ぎを起すかも知れない」
と言っていた。
イエスがベタニヤで、
重い皮膚病の人シモンの家に居て
食卓についておられた時、
ひとりの女が、非常に高価で
純粋なナルドの香油が入れてある
石膏のつぼを持ってきて、
それをこわし、
香油をイエスの頭に注ぎかけた。
すると、ある人々が憤って
お互いに言った。「なんのために
香油をこんなにむだにするのか。
この香油だったら、三百デナリ
以上にでも売ってしまえば、
貧しい人たちに施すこともできたのに」
そして女をきびしくとがめた。
するとイエスは言われた。
「するままにさせておきなさい。
なぜ女を困らせるのか。
わたしによい事をしてくれたのだ。
貧しい人たちはいつも
あなたがたと一緒にいるから、
したい時にはいつでも
良い事をしてやれるだろう。
しかし、わたしはあなたがたと
いつも一緒にいるわけではない。
この女はできる限りの事をしたのだ。
すなわち、わたしのからだに油を注いで、
あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
よく聞きなさい。
全世界のどこででも、
福音が宣べ伝えられる所では、
この女のした事も
記念として語られるであろう」
マルコによる福音書 14:1-9





