(生後3日目、退院して帰宅した日。自宅のベランダで西陽に染まる空とともに)

 

 

生後すぐに感じた4つの"異常"

 

アメリカは出産は通常1泊ですが、ニコは2500g以下の小さい赤ちゃんだったことから様子をチェックするために2泊で退院となりました。

 

 

前回のブログに書きましたが、たくさんの医療関係者がニコをチェックしてくださいましたが、ダウン症があることに気がつかれないまま退院となりました。

 

そこからダウン症があると告知を受けるまで、初めの一カ月をふりかえります。

 

病院にいる期間があまりに短かったこともあり、帰宅するまでは気がつかなかったのですが、退院した日の夜には異常を感じて「どうしたらいいんだろう」と不安でいっぱいになりました。

 

育児書などで予習して知っていた新生児の姿と、ニコの様子は違っていました。

 

 食欲がない

ミルクがむせて飲めない 

起きない 

泣かない 

 

この4点が特に大変でした。 

(後で聞くと、どれもダウン症のある赤ちゃんには よくあることのようです) 

 

 

(生後1週間くらい。起きてもこんな感じでボーッと目が覚める程度。でも可愛くて可愛くてたまりません飛び出すハート

 

 

  ~食欲がない~ 

 

一番最初に気がついた異常が「食欲がない」でした。

 

退院して帰ってきて、哺乳してみると 「あれ?飲んでくれない」 。。。と気がつきました。時間を置いて何度やってみても飲んでくれません。

 

 当時の私のメモを見てみると 「ミルク飲まず」「母乳を2吸いして寝てしまった」という言葉が並んでいます。

 

1回の哺乳で最低でも40mlで3時間以上は間隔を開けずにに飲ませないと「脱水症状で命の危険がある」と医師から言われていたのに、飲まないことの方が多く、飲んでも5ml-10ml程度でした。

 

「飲まない」ことは命に直結するので、本当に生きた心地がしませんでした。まだダウン症があることが分からない段階でしたので、理由が分からないのも怖かったです。

 

追記:食欲がない・食べることが好きではない・食に興味がない問題は、結局4歳くらいまで課題として残っていました。ただ活発に身体を動かす量が増えるにつれ、だんだんと解消されていきました。9歳になった今は「お腹すいた!」と教えてくれるようになっています。

 

 

  ~ミルクをむせて飲めない~

 

私の母乳が本格的に出始めると ニコがむせるようになりました。 母乳の勢いがありすぎて、飲めないようなのです。 

 

そこで哺乳瓶も試してみたのですが、 新生児用のゆっくりなスピードで出るはずのものでも、むせました。 

 

しかも、ゲホゲホと咳をする力もないみたいで、ミルクが気管の方に入ってしまうためなのか、 ヒィーっと溺れているような奇声をあげ、 目を見開いて苦しそうにしていました。

 

命の危険と隣り合わせで、哺乳しているような状況でした。

 

これらはニコにダウン症があることが分かっていれば、避けられたことじゃないかと思います。多くのダウン症のある乳児は、経口で栄養が摂れるようになるまで、鼻からの経管栄養ですくすくと育っています。

 

もし「飲まない」「飲めない」ということで不安を感じてこのブログを読んでいる方がいらっしゃたら、医療機関に相談してください。

 

私のように経口で栄養を与え続ける努力をすることは、誤嚥性肺炎の危険もあることからやめたほうが良いと思われます。(と、後々セラピストから言われました)

 

追記:ニコは「ミルクの飲み方」を、ダウン症の告知直後から専門家に診ていただきました。少しずつですが飲めるようになっていきました。

 

アメリカはOTが専門ですが、日本ですと摂食・嚥下リハビリテーションの専門家がいる機関に相談されてみてください。東京都多摩地域にお住まいの方でしたら、日本歯科大学附属病院の口腔リハビリテーション多摩クリニックは専門家が揃っています。

 

 

食べることに興味がないので、結局ニコは4歳くらいまでミルクからの栄養をメインに育ちました。卒乳などについて、焦らなくて良いのかなと思っています。そんなニコも9歳となった今は、かなりモリモリ食べるようになりました。

 

 

 

 

 

  ~起きない~ 

 

生後6日目くらいから、ミルクの量が足りていないから体力が落ちたのか、または他の理由があったのか分からないのですが、怖いほど寝込むようになりました。 

 

一日一回くらいは目を覚ます時間があるものの、 あとはひたすら寝てました。

 

 起こすのがとても大変で、 服を脱がして、身体をこすり、音楽を大音量でかけて、濡れたタオルで身体をふき、それでも起きないときは、最終手段として氷水を体にたらすという奥の手も使いました。 

 

そこまでしても、うっすらと目を開けるのみ。 その瞬間にすかさず口に哺乳瓶をいれると、 チュチュと少しは飲むものの、 すぐにまた寝てしまうような感じでした。 

 

3時間以上は授乳間隔を開けないように言われてましたから、タイマーをかけて頑張りましたが、どうしても起こせずに4時間~5時間あくこともありました。 

 

すやすやと眠りつづけるニコを見ながら、 「飲まない」「飲めない」「起きない」 ことへの不安に押しつぶされそうな日々でした。

 

追記:その後、ダウン症のあるお子さんのママパパの話を聞くにつけ「うちも起きなかった」という声が多数です。ダウン症のある赤ちゃんは、始めのうちは起きる体力がなくて、寝てばっかりなようです。体力がついてくると、起きている時間も増えてきます!そして9歳となった今は、放っておくと11時くらいまで寝てくれないこともしばしばあります。

 

 

  ~泣かない~ 

 

新生児というと「泣き止まない」というイメージがありましたが、ニコは最初の1カ月は泣いた記憶がありません。

 

赤ちゃんが泣いて何かを教えてくれることがないので、とにかくニコの様子を慎重に観察していました。

 

ダウン症のある赤ちゃんは、体力がなく、筋力も弱いことから、新生児のうちは泣かないということはよくある事のようです。

 

追記:確か生後1カ月くらいになったら、顔を見ると「泣いている風」な感じの時が出てきました。まだ声が伴っていませんでしたが。でもだんだんと声が出てきて、1歳ごろにはギャン泣きできるようになっていました。

 

 

 

 

 

退院10日で8ヶ所に助けを求める

 

 

  助けを求めているのに・・・

 

 

こんな状況だったので、明らかに「ニコは助けを必要としている」というのは分かりました。

 

退院後の10日間で8回も小児科・救急外来・母乳クリニックなどに連れていきました。

 

7カ所目までは「大丈夫です。お子さんは健康に見えます」 と口を揃えていわれ、 「一回あたり50mlのミルクを1日8回あげてください」 という同じ指示を出されました。 

 

それが出来るなら、ここに来てませんって!

 

助けを求めているのに、医師らに助けが得られない状況に「どうしたらニコを助けられる?」と必死でした。

 

心配で心配で、自分が呼吸をするのさえ忘れがちで、 いつも息苦しかったのをおぼえてます。 

 

小さくか弱い最も大切な命が 、私ひとりの手に託されている状況で、「気をしっかり」「爪をたててここを乗りきる」と 強く強くこころに言い聞かせていました。1mlでも多くニコに摂取してもらうために、ほぼ睡眠も取れずの格闘でした。 私の人生で、最も必死で、最も怖いと感じた日々でした。

 

追記:自分の経験から、生まれてきた赤ちゃんにダウン症があることを、早く認知することは、その赤ちゃんの健康維持のために重要だと感じています。新型出生前診断は「命の選別」などと言われ、当事者やその家族から忌み嫌われていますが、選別するためではなく、「生まれてくる赤ちゃんのために準備を整えてあげる」ために使ってあげるという運用をメインに進めていくべきだと考えます。

 

 

  原始反射「手のにぎりかえしがない」→遺伝子検査へ

 

さて、ニコの異常に気がついてくれたのが8ヶ所目の小児科クリニックのドクターM先生でした。

 

生まれたばかりの赤ちゃんの無意識の反応「原始反射」の一つひみである「手の握り返し(把握反射)がないとおっしゃっていました。

 

遺伝子検査と、内臓に疾患がないか血液検査をしてください」と言われました。ドクターの頭の中にはダウン症の可能性が浮上していたのだろうと思われます。

 

 普通このへんで 「もしかしてダウン症?」と気がつくとおもうのですが、 私はミルクを飲ませてニコを生かしておく事に必死すぎて、ダウン症の可能性については、まったく何の予感もありませんでした。 

 

 

  ダウン症候群の告知

 

遺伝子検査から2週間後くらいにドクターMから医院に来るよう連絡がありました。

 

 医師のほうからわざわざ呼び出される事は初めてだったので「もしかして何か悪い知らせでもあるのか?」とチラリと思ったものの、 病院通いが日常化していたので あまり気にも留めていませんでした。 

 

ですので、ニコにダウン症があるとの告知は青天の霹靂でした。

 

 ドクターMは優しい人柄の先生で、 つとめて穏やかに、 ニコの内臓の検査は問題がなかったが遺伝子検査でダウン症があることが分かったと伝えてくれました。

 

 「Down Syndrome」という英単語を聞いたとき、頭が真っ白になったのをおぼえています。 「ダウン症」という日本語はかろうじて知っていましたが、どんな疾患かまでは知りませんでしたし、初めて聞く英語とすぐには直結せず、すぐには意味が理解できませんでした。頭がバグって一時停止してしまったような感じです。

 

ドクターは私に少し時間が必要だと思ったようで 「ちょっと書類をとりに席をはずすよ」と、なんとティッシュの箱を私に手渡してから部屋を出て行ってくれました。 

 

ダウン症候群についての知識はほぼない中で、そのテイッシュの箱を渡されたことによって、「え!!箱ごとティッシュが必要なほど泣くことが想定されるほど、悪い状況なの?」と早とちりしてしまい、大泣きしてしまいました。

 

 あんなに号泣したのは、後にも先にもありません。 

 

こころのなかに嵐のように渦巻いてきた1カ月間の不安と緊張に、 決定打となる雷が落とされたような感じでした。

 

追記:あのティッシュの箱がなければ、もう少し冷静でいられたと思うんですよね。ドクターMの優しさの方向性が、間違っていましたね。

 

 

  一番知りたいのは「どんな人生を歩むの?」ということ

 

 戻ってきたドクターに「なにか質問はある」と尋ねられ、 たったひとつだけ聞いたのが 「息子は、どんな人生を歩むのでしょうか?」 ということでした。

 

 ドクターは「ダウン症があるひとは、なんでも出来ます。 学校にも行けるし、スポーツもできるし、 仕事もするし、結婚している人もいます」 というようなことを言ったと思うのですが、 その目に涙が浮かんでいたことが 一番印象に残りました。 

 

追記:この告知の経験は、今の私(2022年)にとっては大きな意義がありました。

 

新型出生前診断で「遺伝カウンセリング」の徹底が重要といった議論が国ではありますが、親となる可能性がある人が知りたいのは、遺伝子の情報でも、医療的なリスクの可能性でもなく、「その子の人生はどんなものになるのか」という生きた情報なのです。

 

そういう生きた情報を提供しないまま、医療的リスクだけ説明されて、安心して出産を決断できる人は少ないだろうと思います。反対に産む決断をした親にとっても、そのカウンセリングは特に役に立たないと感じます。

 

告知を受けた時の自分の経験からも、新型出生前診断において、妊婦とパートナーに寄り添い、生きた情報提供ができる仕組み作りを進めなくてはと考えています。

 

そして微力ながら、その「生きた情報」として、このブログの発信をしたいと考えています。

 

 

 

 

次は〜「告知を受け入れた時のこと」に続きます。