毛色の違うことを忌み嫌われたと感じた過去が
あったとしたなら、それは勘違いからだ
それは自分の魅力を打ち消そう!とさせてしまう
生きる為に合わせないと!と強迫観念持ってると
無理やり自分をねじ曲げて魅力消して隠すんだ
で。それをやめたなら手にするのは、、
ココロを、行動を縛ってきた《制限からの解放》
毛色の違うこと、人、考えこそ。
自分の唯一無二。自分だけの色。放たれる魅力
《同調させよう!従う方にさせよう!》とする力に
《嫌われ》ることをおそれなくていい
親和性によって安心したがる輩に自分を曲げてまで
服従を選ばなくていい
《既存の価値観》にはまる人=適応=扱いやすい
《既存の価値観》にはまらない=不適応=除け者
こんな風潮、価値観の下で自分の行動や意思を
無理やりねじ曲げよう!とさせるから苦しいだけ
社会にうまくカチッ、とはまる=社会のふつう。
そんなバカな概念がまかり通ってしまってるから
なんたら障害!の名前がやたら《摘発》されていく
親の理想とする姿、価値観、に近いと可愛がられ
親の理想、価値観に反し毛色の違う系統!と認定され
疎まれてしまうことに《悩まなくていい》
むしろ、堂々、自分を出していけばいいだけ
親の、社会の求める理想に即するか反するか?
それで外の評価なんて手の平かえし、だとしたら
そこに執着、しがみついて生きよう!なんて
ナンセンス!
今はきっと、そういう価値観のウォッシュアップの
真っ只中なんだ
同じ考え、同じ足並み、同じ基準、同じサイズで
軍隊みたいに詰め込んできた脳内を一旦クリアにして
もう一度自分を育て直し、前提リセットしてる最中
《優等生》でいる利得。それを維持する理由を
自分から捨て去るとき、誰かの理想をなぞらずに
自分の人生を生きよう!というパワーが湧いてくる
ネコの赤ちゃんたち、一様の毛色じゃあない
それが《ふつうで当たり前でそれぞれの魅力》
親の、学級の、社会の、パートナーの、自分の、
理想とする《人間としての最高峰》目指すより
同じような色に頑張って染まろう!と押し込むより
今の自分をまるごと肯定できたらもう最高だ