今日は水曜日、
オフで、家にいた僕に
入間市教室の和田先生から連絡があった。
「一応お知らせしておきますが、
△△中学のあの数学の先生が逮捕されたそうです。」
衝撃が走った、、、というか、信じなかった、
そんなわけないでしょ、誰かにガセネタつかまされただろう、
そもそも、その先生は、
脳梗塞で倒れられて、今、休職中であると聞いてるぞ、
数週間前、生徒たちが塾に来るなり報告してきた。
「○○先生が、脳梗塞で倒れたんだって!!」
かわりの先生は来たものの、
授業は遅々として進まず、
中間テストは、試験範囲の変更(短縮)が1度ならず2度続き、
しかし、僕らは
お若いのに脳梗塞を患ったという先生の回復を願い、
「先生、だいじょうぶかなぁ」と会話する、
「あんだけ一生懸命だった先生だからなぁ、
一生懸命すぎたのかなぁ。。」
「大声出し過ぎて、血管切れちゃったんじゃないとか、
みんな言ってるよ」。
「そっちが嘘だったんです、
今日、緊急集会が学校で開かれたらしいです。」
どうやら、知らせてくれたのは
教室に通うある生徒の保護者で、
まさに、その生徒の担任の先生の話であり、
そして、その先生については
他の保護者の方もふくめ、よく話題にしていたので、
それでわざわざ知らせてくれたのだろうと思う。
「ホント、いい先生ですよね!!」
と、よく話題になっていたのだ。
しかも、逮捕されたといっても、
たとえばスピード違反、駐車違反とか
そういうたぐいのものではなくて、
女子生徒の着替えを盗撮することを目的として
教室にカメラをしかけたというもの、
あまりに同先生への印象からかけ離れておって、
それでもまだまだ、信じなかった。
が、ネットで検索してみたら、
すべてホントのことだった。
なんなら、大ニュースになっていた。
「教室で着替え中の女子生徒を盗撮容疑」
(朝日新聞デジタルより)
あまりのことに、言葉も出ず、
ちょっと、なにがなんだか
わからなくなった。
ここで、僕の「立場」と
この記事の「本意」を書いておく。
僕は「塾」の人間だ。
この業界に長くいるけど、
「学校」と「塾」とそれぞれにおいて、
お互いを「敵視」する人が少なくないことは事実である。
学校の先生が不祥事を起こすと
「これだから学校のセンセイはダメなんだ」と
嬉しそうに批判する塾の人もいるし、
逆に、塾を目の敵のようにする学校の先生も多い、
僕らも、実際名ざしで
「愛夢舎に通ってる生徒はひいきしません」とか
わけのわからないことを言われたこともあるらしいし、
定期テストとか、日々の指導においても
「これは塾のセンセイには予想できないだろう?」とか
「塾で習った答えは正解と認めません」とか、
これまた理不尽に敵視されることもあった、
ちなみに、最近では
つい先日行われた1学期中間テストで
ある学年の国語の先生が、テストが終わったにも関わらず
問題用紙を生徒たちに返却してくれない、
その理由は
「かつて、塾の先生に自分の出題を研究されて
イヤな思いをしたから」だそうな、
「答えを覚えさせるような塾はダメです、
ちゃんと指導してくれるような塾ならいいですけどね」だって、
ウチはちゃんと指導してますから、問題、ください。
まあ、学校の先生にしてみれば
塾というのは「すきま産業」であるにも関わらず
生徒たちは「塾のセンセイ、塾のセンセイ」と
なぜか塾になつきやがるもんだから、
まるでハイエナのように感じるのかもしれないし、
一方の塾は、学校の指導に「すきま」があるからこそ
自分たちの商売が成り立つのであるから、
学校が「不完全」であることの方が歓迎なのかもしれない、
けど、
僕は違います。
学校だろうが、塾だろうが、
先生は先生であって、
迷惑な話かもしれないけど、
学校の先生に対しては
子どもたちを共に育てていく「同志」だと思っている、
学校と塾とでは、
同じ「教育」といっても、
役割が少し異なるわけで、
しかしそれは
学校教育における「徳育・知育・体育」のうち、
塾は「知育」に特化しているというのは心外で、
現にウチは、さすがに体育は弱いものの
知育以上に徳育にチカラを注いでいると思っている、
だいたい、週に5日通う学校より
週に1~2回しか通わない塾の方が
知育に長けているというのもおかしな話である、
むしろ、同じ地域からの36人という大規模集団の中での
「徳」をはぐくむのが学校であり、
塾は、地域をこえた10人とかの
中規模集団の中での「徳」をはぐくむ、
古い社会学の概念でいうなら
「学校」=ゲマインシャフト
「塾」 =ゲゼルシャフト
のように、僕は感じている。
この仕事に就いた昔から
「人を育てる」という点にのみ
僕の仕事上の目標は向いているので、
それが「塾」だろうが「学校」だろうが、
どっちでなくてはならない、というのがない。
機会があれば、学校の先生になるのもよいと思う。
(免許の性質上、もう機会はたぶんないけど)
っていうか、最初の塾を退職した後、
実際、しばらくの間
学校サイドで働いていたりもしたので、
もしかしたら、その点でも
学校をライバル視する塾の先生方と
少し異なるのかもしれない。
繰り返すが、そういうわけで、
僕は、学校の先生を
勝手に「同志」「仲間」だと思っているし、
それが事実だと信じている。
ゆえに、この記事の目的は
「ほらみろ、学校のセンセイがまたやらかした、
これだから学校のセンセイというのは・・・」
と、そういうかんじの
嘆いているポーズのバッシングをすることではない。
だからといって、
「仲間」だと思っているとはいえ
さすがに、
自分のことのように反省します、ってことでもない。
そもそも、この記事を書くかどうか、半日悩んで、
中途半端になるなら書かない方がいいとも思ったけど、
そして、結果的に書き始めたはいいけど、
別にプロットが仕上がっていたり、下書きをしたりせず、
結局思いついたまま書いているから
中途半端になるかもしれないんだけど、
それであっても、これは書くべきかな、と思った。
中途半端をできるだけ避けるため、
言いかえれば、
誤解が起こるのをできるだけ避けるため、
不格好ながら、ものすごい長文になるのが目に見えている、
短い文章で端的にまとめられればよいのだが、
ちゃんと検討・推敲していない以上、
短ければ短いほど、誤解が起こる可能性があるので。
この記事を書いたのは
批判・バッシングが目的ではなく、
とにかく事態に対しての憂いと
「宣言」すべきと感じたからです。
さて、本題に戻るけど、
件の先生については、
本当に僕は、いい先生だなぁ、と思ってた。
どこまで参考にしてよいのかわかんないけど、
実際、文科省から表彰されてたりもする。
僕も入間市でこの仕事について
なんだかんだで、もう15年ほどになるんだけど、
最初にお見かけしたのは
今から7~8年前だったろうか、
以前、おつとめだった中学校の体育祭に見学にいって、
なんともまあ、熱心な先生がいらっしゃるものだと、
心の底から感心した、というか、尊敬した。
毎年その中学校の体育祭に出かけるのは
もちろん、生徒たちの様子をみたいというのもあるけど、
実は、その先生の一生懸命なお姿を拝見して
「ボクはこれじゃまだまだダメだ!」と
無言の叱咤をいただくためだったと言ってもいいくらい、
ある年の様子は
オフィシャルブログで
こんな記事
に書いたりもしていた。
(一緒にいた和田先生は、
声をガラガラに嗄らして、グラウンドをかけまわり、
すべての生徒を全力で応援する先生の姿をみて
「松岡修造だ・・・」とつぶやいた)
本当に熱心な先生であって、
それは、申し訳ないけど
完全に他の先生方から「浮いている」、
悪いが、中学校の体育祭での先生方の動きというのは
基本的には、たまの日曜参観に駆り出されたお父さんよろしく、
なぜか照れ笑いのような表情を始終うかべて、
おまえはあっちだ、キミはこっちだ、と事務的に指示を出す程度、
ひょっとしたら、あの先生の動きは
ほかの先生に疎ましがられているのではないか、
そんな風にも思うくらいで、
後に同じ学校の先生になったウチの卒業生に
「実際のところ、どうなの?」って聞いたところ、
「いや、あの人は、そういうレベルを超越してます、
誰よりも早く出勤して、一生懸命やるから
誰も文句の言いようがないんです」だそうな。
「現場に疎ましがられるハナシ」というのは、
僕の勝手な想像ではない、
僕は、この手の話をかくとき、
前職で学校関係のことをやってたことを引き合いにだすが、
それはそのキャリアをひけらかすためではなくて、
「現場のことを何も知らないくせに」という
批判から身を守るためである、
確かに学校現場に、職員として入ったことはないけど、
たとえば、
小学校教員を20年続けられて、
今や、テレビにゲストコメンテーターとして
呼ばれるようになったある先生が
(たしか今は教頭先生か校長先生になられている)
まだ現場教師であったころに僕のところにみえて
「鎌田さん、ボクはもう公立現場はいいんですよ、
若い先生がみんなやる気をもって入ってくるでしょ、
最初の2~3年は、オレが学校を変えてやる!って意気込みで
みんな鼻息を荒くして現場に立つんですよ、
でもね、上がよくない、
『そんなに頑張ってると、息があがっちゃうよ』とか
『どうせやったってやんなくたって、給料かわんないんだから』とか
『下が入ってきたら、下にやらせればいいんだから』とか
そういうことを実際に言うし、
そういう雰囲気の現場だから、
やがて若い先生も、そのやる気を失ってしまう、
こんなのはダメだから、
ボクは私立で、がむしゃらにやりたいんです!」って
私学への転職を希望されたことがある
(実際には、いくつかの学校の教頭職をご案内したけど、
タイミングが合わずに、公立校に残られることになった)
またあるときには
これまた長年、公立の高校で教頭を務められ、
前年だかその前の年だかに
定年退職された先生がお見えになり、
「管理職になって、ようやっとわかりました、
現場がどれだけ子どもたちの方を向いていないか、ってことが。
自分も現場にいたころは、ああだったにちがいない。
だから、今からもう一度、
ひとりの講師として生徒たちに向かいあいたいんです」
と、半分くらいしか生きていない僕に頭をさげて
「一講師」の職を求められたこともあった。
ある私学では、
模擬試験の監督業務で
教室間を移動するのにこれこれこんだけの距離があって
これだけの時間がかかるから、
時給を50円アップしろ、と
経営陣に要求する現場をみたこともあるし、
そういうのにいちいち答えてたら
一日数時間しか働かない掃除のおばちゃんの年収が
1000万円を超えてしまった、という
理事長の嘆きを聞いたこともある、
もちろん、いずれも15年ほど前の話であるし、
そもそも「問題」だからこそ
相談にお見えになるわけで、
すべてがそうだと言っているわけじゃないけど、
「そういうハナシもあった」というのは事実です、
で、もしそういう現場なのだとしたら、
件の先生は、間違いなく「異端」であるだろうと思った。
生徒や保護者からの評価も高かったと思う。
もちろん、これまた
人によりけりで
「あの先生は好きじゃない」という人も
いたには違いないだろうけど、
熱狂的なファン、信者のような生徒が多数いたことも事実で、
それは僕にとっては
「さもありなん」という感じであった。
ゆえに、
今回のこれは
極めて、ダメだ。
そんな先生だったから
「魔がさしたんだろう」とか
「ふだんはいい先生だった」とか
弁護する気は毛頭ない。
いい先生だったからこそ、
本当に、ダメだ。
実際「犯罪者」になってしまうけど、
比喩的に表現しても
重罪に匹敵するほと、ダメだ。
ただ、
罪の内容が、女子生徒に多大なる精神的ショックを与えたから、
それはともすると、トラウマとなって
生涯消えることのないような傷となりえるから、だからダメだ、
と言っているのではない。
もちろん、内容がダメなのは
そんなの言うまでもないわけで、
でも、それ以上にダメなのは
子どもたちの
先生や大人、
世の中を信じる心を
これでもかというくらいに
破壊してしまったこと
「この先生ならもしかして・・・」とか
「この人は、今までと違う!」とか
わかんないけど、
そういう思いを抱いた人は少なくなかったと思う、
だって、僕がそうだもん、
世の中、まだまだ捨てたもんじゃないな、
という、そういう期待、願い、
それを
やっぱりダメなんだ、という、
「絶望」に変えてしまったこと
これは本当に絶望的に悲しいし、残念である。怒りは、ないな。
が、これまた繰り返しになるけど、
とはいえ、
僕は、その先生個人を批判するものではない。
これは
「気づけなかった学校がいけない」とか
「先生を精神的に追い込んだ労働環境が・・・」とか
そういうふうに
「責任転嫁」をしようとしているのではない、
もちろん、先生本人がいけないに決まってる、
けど、
どうせこのあと
「学校側の責任問題」とか
「教育委員会はなにしてた」とか
「教員の再研修制度の機能」とか
「そもそも採用段階での・・・」うんぬんが
始まるに決まってて、
でも、そんなの、
僕に言わせりゃ、
ぜんぶ「オトナの言い訳合戦」であってね、
言うまでもなく、
最大の被害者は
人を信じるということを
またしても否定されてしまった
子どもたちだよ、
子どもたちにとって、
校長がいけないとか、教育委員会のせいだとか
大学がちゃんと教員志望者を指導しないからとか
そんなことは、心の底から
本当に、どうでもいいよ、
件の先生の担当クラスの子たちは
本当に悲惨な目にあってるよ、
まず1年生のときには
どういうわけだか知らないけど、
「お得意」の「過労」とか「精神的負担」だかで、
1年間に3回も、英語の担当の先生が変わってしまった、
そのたんびに教え方がコロコロ変わって、
見事に、英語のイロハが
まったくわかっていない中学3年生たちが、
今、僕の教室でひぃひぃ言ってる、
同じ中学には去年だかおととしまで、
これま暴力・体罰教師だとかいう先生もいて、
いらない話題といらない心配事をふりまくし、
中学校が変われば
今年、赴任したばかりなのに、
いわく、奥さんの体調がすぐれないからということで
ひょいひょい欠勤して、
そのたんびに自習になっちゃうクラスもある、
ちなみに、その先生は
和田先生が中学生だった頃に担任していた人らしく、
当時から口達者だった和田先生は
いつまでたってもテストが返却されないことに
「家で採点すればいいじゃないか!」と言ったら
「コーヒーがこぼれるから、家じゃできない」と答えたらしい、
すごいこと言うけど、今は奥さんの体調不良がメインの理由らしいよ、
そんなんばっかだよ。
もしかして、
「コーヒーこぼれちゃうから採点できない先生」なんかは
今回の事件をうけて
「ほらみろ、目立ってがむしゃらに
ぜいぜいはぁはぁやるから
そういうことになる、
ワタシみたいに適度に手を抜いてる方が
細く長く働けるっていうもんだ」とか思ってたりするのかしら。
だいぶ、学校の先生批判のように
見えてきましたね。
だからこそ
ここに「憂い」と「絶望感」があるのです。
それでも僕にとっては
同じ教育者であるという意味で、
学校の先生方は
「同志」であり「仲間」なのです。
立ち返って、
じゃあ、塾の先生に
おかしな人はいないのか、と言われれば
そんなん、おかしな人だらけですよ、ええ。
もしかしたら、僕がいちばんおかしいかもしれない。
だから、ここに「絶望感」がある。
子どもたちの前にたち、
子どもたちを導いている人は
そんなんばっかりだ、ってことになってしまうから。
また学校の先生の話に戻るけどね、
それこそ「ゆとり」の頃なんかには
「
学校の先生だって、労働者だ!!」
なんていうコールが飛び交ってたよ。
そんなん、言われなくたってわかってるよ。
そりゃ、奥さんの体調が悪くなりゃ休むわな、
つぶれないように「息抜き」もするし「手抜き」もするだろうよ、
酒も飲むし、ギャンブルもするかもしれない、
「先生」だからといって特別扱いしてるのは
周りの方だというのは確かでしょう。
ぶっちゃけ、今回の事件だって
僕はいまだに、
ホントに「魔がさした」と思ってます。
僕の相方なんかは
「やっぱり学校の先生は
アタマがおかしい人が多いんだね」とか言ってるけど、
それだと本当に「絶望」なので、
そうでないと信じたい気持ちもあって、
ホントに「魔がさした」と。
そういう意味では、
たとえば運転中の交通事故とか
何気ない一言で生徒が命を絶っちゃうとか、
そういう悲劇の可能性は
どこにでも潜んでいるとすら思う。
けど、
その「魔がさした」がいけない、
絶望的にダメ。
しつこいようだけど、
犯罪の内容うんぬんのことを言ってるんじゃなくて、
そして、
個人の資質とか組織の体質とか
そういう難しいことを言うつもりもなくて、
とにかく、結果として、
子どもたちに
人を信じるということに
絶望させてしまったということが
とことんダメ。
それがすべてなので、
だから「いきさつ」とか「今後」とか
そんなことは、どうでもいい。
そして、
だからこそ
「宣言」しようと思った。
しなければならない。
愛夢舎は
何があっても絶対に
子どもたちを裏切らないよ!
信じてくれる人に
悲しい思いはさせないよ!
だからこそ
愛と夢を与えるという
極めて簡単で、極めて難しい命題を
自分たちの名前にしてるのだ。
これは、覚悟の表れだ。
「ここだったら、もしかしたら」
「このオトナなら、信じてもいいかも・・・」
そんな思いを踏みにじることは
絶対にしないよ!!
僕らにできることは
そうやって、声高らかに
宣言することだけじゃないか。
「どこにでも可能性はあるんだろう?」
「同じ穴のムジナなんだろう?」
といくら言われても、
「いいや、違う、
僕は決して、裏切らない」と
断固として宣言することだけじゃないか。
「そうは言っても、
満足いただけないかもしれないから」とか
「そんなこと言って、
万が一『魔がさす』ようなことがあったら・・・」
「自分のせいじゃなくても
結果的に悲劇が生まれてしまったら・・・」とか
そんなことを心配してるのは
「取れなかったときカッコ悪いから」と
「目標は100点です」と言えない子どもと同じ、
言えないものは、実現しないと思う。
だからこそ、
宣言します。
そうして、
オトナを、社会を、先生を、
ワタシを信じなさい!
と宣言する人が増えることのみが
子どもたちが
人を信じられるようになることにつながるのかな、
と、
こう思います。
エラそうなことを書きやがって、
ホントにできるんだろうな、
とか言われたら、
ええ、もちろん。
できます、やります。
と答えるのみです。
そんなの、こっちの「覚悟」でしょ。
僕は、ちっちゃい塾の一教室長であり、
経営者ですらありません、
生意気言うなと、多くの先輩方に
お叱りを頂戴するかもしれませんけど、
それでも、「かまた」の言ってることに一理アリ、
とお感じいただけたら、
どうか、
多くの塾さん、
多くの学校の先生、
多くの親、オトナたちが
勇気をもって、覚悟をきめて、
子どもたちの前で宣言してほしいと思っています。
最初に戻りますが、
子どもたちの前に立つという意味で、
すべてのオトナは子どもたちに影響をあたえ、
子どもたちはそのオトナをみて、育っていきます。
すべてのオトナは教育者です、
実際、行きつけの床屋さんなんかは
僕よりよほど「先生らしい」と思ってて
こんな記事を書いたこともある。
すべてのオトナは、僕にとって同志です。
子どもたちが、人を信じられるようになるために、
僕も同志を信じます。
たぶん、過去最長の文章です、
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
kama
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