象の夢を見たことはない -81ページ目

逃げ水

その人の中で消化されて、なお浮かんでくる表現。

っていうのがあるのだと思う。上手く言えないけど。

ジェームズ・キャメロンが、ターミネーター2を制作したとき、それを観たアビスの興行主だったか誰かが「アビス」は「ターミネーター2」の実験作だったのか?と監督に詰め寄ったとかいう話をどこかで聞いたのだけど。

時々、過渡期っていう言葉を聴くけど、過渡期っていうのは常態なのだと思う。
「最終的な形はある」という幻想。
それは、目的的には目指すものではあるけれど。

あるいはそれが手元にあることを確信するあの感じ。
その手触り。それが掴めたときの感じ。

刹那的な悦びと永遠を目指すなにか。
その間で揺れ動くこと。

同じ監督の作品だそうだ。





バンドを横から撮る手法っていうのは、もともと大分前からある。
これってドラムスのF1的なマシンと人との一体感というか。
人と機械とが一体化していることの美しさというか。

もちろん、そこには落とし穴があって、人が主である場合から、機械が主であることへの転落的な危うさを含んでいるから美しいわけで。R62号の発明がもつ怖さ。リングの貞子が現代的に怖いのはテレビから出てくるからだったり。そういう刹那的な、というか時代ごとにその時代を生きる人にだけある、恐怖だったり希望だったり。それこそが本質的なものであって。決まった形などなく。。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm2487780

哀しさっていうのは、一体人生においてどういう意味があるんだろうねぇ。
結構、本質的な生きることのミソなのだと思う。

力がうまく抜けてるときに「ふっと」出てくる。
そういうものに「良い」ものが多い。

上澄み液的な何か。
哀しさというのもそういうものなのかも知れない。

逃げ水を常に見ている。
見えなくなることが怖くて人はそれを追いかけるのかも知れない。
哲学者が追い求めてきた「本質」っていうのは案外それだけのモノなのかもなと。

ところで、GHEEEとVEZの対バンを希望。
YANAさん、お願いします笑。そういえば、高木フトシとGHEEEの対バンとか、考えてみれば奇跡だったわ@うっぷせっと。

あー、一番このPV見て思うのは「光」の扱い。
画面みてて「眩しい」と思わせるっていう。
漫画の光の表現もそうなのだけど。
光が存在しないところに光を生み出すわけで。
そこに光はないのにだ。この錯覚って一体。。

一応

付け加えると、

自分で自分自身に強いるものがある。たとえば、

一般に組織に入ると権利ばかり主張して義務を果たさない人が多いけど、
プロは人が気付かないような義務まで自分で作り上げてやっていくことで認められてる世界だから、
自分が何をすべきかっていうのが大事だよね。

そうすることで、いつの間にか周りに対しても貢献していることになるんだ。
by 前田日明



現実世界で、理想論をフィッティングさせるってのはいつも応用問題。
理論は、結果に対するフィードバックを受け入れない。
カント哲学とかまさにその典型。死んじゃってるからねえ、書いた人。
もっとも死んじゃってるから言い訳もできないのだが。。
(死んで永遠になるのも大変だ苦笑)

経済学の一般教養をいまさら聴いているのだけど。
とはいえ、基本も大事だなあとも。

揺れるね。
揺れるのが愉しい。
それもアリだなと。

ただミクロ経済学を聴いてて、マクロでも抑えきれない何かはあるよねと。
なんだか、いまさらテスト勉強する気にならないわけで。

創発 wikipediaより抜粋
局所的な複数の相互作用が複雑に組織化することで、個別の要素の振る舞いからは予測できないようなシステムが構成される。
この世界の大半のモノ・生物等は多層の階層構造を含んでいるものであり、その階層構造体においては、仮に決定論的かつ機械論的な世界観を許したとしても、下層の要素とその振る舞いの記述をしただけでは、上層の挙動は実際上予測困難だということ。下層にはもともとなかった性質が、上層に現れることがあるということ。あるいは下層にない性質が、上層の"実装"状態や、マクロ的な相互作用でも現れうる、ということ。


文系のいう経験科学って何なのよと。いっつも思う。
基本的に、自分が定義しているものと、それがカバーできていないことは「わからない」と言える毅然とした態度は必要で。昔、某大学のゼミの公開講座に関係者のふりして忍び込んだときに、ドイツの大学の教授が招かれて話してたけれど、そこを確実に線引きしてた。

大学で教えてる講師の方とかもいたのだけど、彼らはことごとくそれが出来てなかった。国から貰っている給料に対する申し訳的なものなのか、あるいは自尊心との競合なのか。いずれにしろ、「わからないことはわからない」と強く言い切れる。

それがプロフェッショナルの別の在り様だと思う。
貢献というのは、自分で背負えないことは他に委ねて、非難には潔く耐えることでもある。そこで「なにくそ!いつかやってやる!」と思うこと含め。

なにくそ!
オレは潔く非難を受け入れられてるか?

でも出来ないことはちゃんと線引きしないとね。
松下幸之助みたいな潔さ。
経営者としてのプロフェッショナル。
は、そうでない人のプロフェッショナルとは違う。
フェーズによって変わるんだろう。

教えて、ヘーゲル

「確かなものは覚え込んだものにはない、強いられたものにある。」

という小林秀雄の言葉を何故かふとした拍子に思い出してしまう。

仕事の最中にはわからないけれど、それを離れて自分を客観的に評価してみたときに気づく。日々それを使っているときには使っていることを意識することは稀で。身についているものの性質かもしれない。

この言葉を思い出したときに、河合隼雄氏の言葉も同時に思いだす。
自分の中で価値観の平衡をとるためなのだろうか。

「基本、ためになると思って読んだ本は実際はあんまりタメにならなくて。
オモロイと思った本は、後から考えてみるとあんがいためになってたりする。」

それを補強するデータとして、こういう話も思い出す。池谷裕二氏の本から

ネズミのひげにモノを接触させる。
受動的に接触させた場合と、みずからヒゲを動かしてモノに触れたときとで、ニューロンの活動が10倍も違う。みずからヒゲを動かしたときのほうが大脳皮質のニューロン活動がそれだけ大きい。

オモロイというのは好奇心と繋がってて。河合隼雄さんの話と組み合わせると、

「自ら好奇心を動かしたときのほうが案外タメになる」

という話。この二つは真っ向から対立するように思える。
だけど、同時に二つとも別々に成立しうるという経験的な確信がどこか自分の中にある。

まてよ、と冷静に考えてみると実はこの二つはどこかで繋がっている。
強いられたものを果たして納得しないまま、人は使い続けることができるのか?

どこかで、その有用性に気づく。
押さえつけられていたものが、その分も含めてプラスに転換するポイントがある。
「気づき」その当たりに答えはあるのだろう。

止揚と呼ばれるものは、同じ価値観の地平だったり、
その延長線上からは見いだせない。

好奇心というのはその化学反応の閾値を相対的に下げる触媒で、
強いられたものはバネの働きでそのハードルを飛び越すための仕掛けなんだろう。

エモる (続く)

ライブ日記

①5/9(FRI) 名古屋CLUB ZION
「HANGOVER vol.1」
open/start 18:10/18:40
adv/door ¥1800(d別)/¥2300(d別)
<act>
EL BASTA(岐阜)/栗田裕希(大阪)/Electrified Jet Shamisen Okita/THE MIDNIGHT LOVERS/THE BOY
<DJ>
Kyo-ichi/ OTO(SOUNDER)

②5/10(SAT) 栄ミナミ音楽祭
松坂屋本館前
12:30モエコティック
13:0033 Insanity'sVertebra
13:30九龍


5/9 TMNL目的だったけど、ZIONの自分にとっての在り様。
TMNLを最初に観たのもここだけど、
それ以前にSiMを最初に見たのもココだった。
√thummもここ、tokyo pinsalocksもここ。

新しいものと触れる。
そういう場所。
自分にとっては。

今の日本の音楽の生長点はエレクトロ。
転換のDJタイム、DUB4REASONの音が心地よい。
からのElectrified Jet Shamisen Okita。



ライブではプロジェクションマッピング使用。
その映像が凝っていった。ただのアンビエントな映像でなく。

ライブハウスはもはや音楽単体の演奏空間ではなく、
インスタレーション空間としてどういう使い方をするのか?
っていうところに入っているらしい。

彼のは三味線だけでなく、
バリの伝統音楽。ケチャだとか。

Baraka - Kecak


そういうものまで使い始めてた。

あるいはこの先、音や映像の提供だけでない
参加型の空間へ変化する必要があるのかも知れない。
ライブハウス。

今の観光業、一昔前のただ景色を見るっていうものから、
参加するイベントを提供するものへ変わってきている。

仮想空間ではなく。
手触りがある場所に変化する必要がある。
どういう商売をするにしても。
それがこれからの鍵になってくるんだと思う。

まあ、どっちにしろ後ろで踊ってる自分からすれば既に参加型な場所だけど。

でもそういうレベルでなく。
「アイズ・ワイド・シャット」に出てくる秘密集会的なヤツがいいなぁ。
どうせなら。

日常生活が浸食されてそれによって壊されるくらいじゃないと面白くない。
手触りっていうのは本来そういうものだと思う。
身体的な感覚が、意識を根っこのところで組み換える。

父の日ではないけれど

「父の日に」 石垣りん

向こうに 立っている お父さん。

一本の木のように しっかりと。

父はそうして

立ちつづけに 立っている。

立つことで

はじめてあなたは 父であったから。

私が生まれる前から

私が死んだ後までも

樹齢何百年 というように

父は 立っていなければならない。

いのちの 原風景の中で

はじめから 終りまで。

向こうの方に 立っている お父さん。



父になれなかった自分に。そしてあなたに。