変拍子
いきなり、ボーンの逃走シーンだ。本作の一番のカギはテンポだ。今回は3部作のラストなので速いテンポでスタートを切りたかった。結局のところ映画はすべて追跡劇だ。本作では答えを求めるボーンを描きたかった。
このあと、さらにポール・グリーングラス監督のナレーションが続く。ボーン・アルティメイタムのボーナストラック。
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マット・デイモンのボーンシリーズ3部作はDVDですべて持っているのだが、いずれのボーナストラックも作品の監督やマット・デイモンの解説が面白い。
すべての芸術は、受け手にとっては時間芸術となる。絵画だってそう。どこを見るか、どれくらい見るか、どんな対話をするか。それらは鑑賞する人の時間に委ねられている。時間の経過で、印象が変わってくるし、自分の経験によっても変わっていく。自分にとって大事な作品は、結局長い年月をかけて対話することになる。
小説について。
果たしてそのプロットの作り方は、自らの内体験をどういうふうに切り分けて再構築し、つなげていくか、そういうポイントもあるのだけれど、文体については、そのテンポに関して、どういう文体で、どういう場面を書いて行くかというのが、読者が小説をどのように読んでいくかというテンポをコントロールするのに非常に重要な役割を果たす。心拍数とリズムの問題。この場合にも、やはり自分の場合、変拍子万歳なのである。
他の分野の優れた作品の作り手がどういう意識をもって、その作品を作っているのか。それを導入することで自分の中に新たな地平が見えてくる。
現代美術のハードコアはじつは世界の宝である
現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 ヤゲオ財団コレクションより
セレクトショップなんだと思う。
オーナーやバイヤーのセンスが店舗の運営に重要な役割を果たす。そうwikipediaには書かれているセレクトショップ。
このところ、どうも美術館のあり様について、どうなんだろうと思うところがあり。
学術的っていうモノの集め方って面白くないのである。システムとか。概念とか。
結局、その人がどういうモノの集め方をするかっていうのがあって、それは大学教授だって、その専攻の選び方にしろ、何をするかっていうのと同じだろうと。浅田彰氏の文章を読んで思った。要は嫉妬なのだろうと。
東京国立近代美術館で企画した主任研究員の保坂健二朗氏のインタビュー記事を以下にリンクしておく。
というか、浅田彰氏の本音は、オレになんで噛ませてくれなかったんだ!っていうことなんだろうと。まあ、この人らしい噛みつき方なのだけれど。
それほど、この展覧会は面白かった。近い雰囲気の美術館は、豊田市美術館。
キュレーターに一番求められるのは、学術性より、センスなんじゃねえかなと思ってしまう。どうせ税金つかってやるんだったら総花的なものなんていらないのだよね。そうならないのが政治のつまらなさで、だからトランプなんだろうと思わないでもない。まあ、それで行き着くところと言えばカオスなのだけれど苦笑。
こんなコレクションを回し続けられるほどの財閥なんてない。
台湾のトップコレクターのコレクションが一堂に会した「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である展 ヤゲオ財団コレクション」
ああ、豊田市美術館遠いなあ。名古屋にあったなら…。
モノを見る技術
もう20年以上も前、突然スペイン熱が高まり、NHKスペイン語講座を2年ほど録画していたことがあります。その頃は、週に2回、昨年分と本年分の語学講座が放送されていました。今では考えられないのですが。
そのスペイン語講座でメキシコにスポットをあてて、1年間メキシコのスペイン語講座を行っていました。講師は早稲田大学の山崎眞次氏。ラテンアメリカ史が専門でした。
メキシコはもともと多民族国家です。番組でも、ある踊り手の生活を中心にして、いろんな民族に伝わる踊りが紹介されていたことがあります。その踊りの服装が多種多様で、ああこんなに様々な伝統をもった民族がいるのだなと感じた記憶が残っています。もっとも、日本だってもともとはそうだったのかもしれないのですが。
メキシコと言えば、死生観。ドクロと太陽。そういうイメージがあるのですが、メキシコ美術にもお土産にもそれは端的に表れているように見受けられます。
名古屋市美術館のテーマの一つにメキシコ美術があります。国内ではなかなか珍しいのではないかと思います。メキシコの美術と言えば、壁画運動とフリーダ・カーロっていうふうに思ってしまうのですが。そういう関係でか、否か、アルバレス・ブラボ写真展-メキシコ、静かなる光と時が今開催中で、写真に飢えていた自分は興味本位で、ライブ遠征に行くついでに寄ってみました。
写真は、モノをみる技術だとか、入り口の説明に書いてあったように思いますが、定かではないです。モノの見方だとは思っていましたが、技術?そんな大層なものなのかと思いながら、会場で写真を眺めていました。モノの見方という点では、「あー、こういうアレね」といういかにも古臭い手法だなという感想しかもたなかったのですが、通して見て、今それらを思い出してみると、妙に懐かしさを感じてしまうのでした。
たぶん、今のCMや、映画や、写真に慣れている人は、この写真展の写真、構図も主題も撮り方もあまりにつまらなく、モノの見方もありふれていて、あるいは、被写体にポーズを取らせたのであろうと思われる写真など、あからさまな自我がでていたり、ちっとも面白くもおかしくもないように思えるのですが、逆に写真家の人はそうでないようです。
マヌエル・アルバレス・ブラーヴォ - ほぼ日刊イトイ新聞
見る技術というのは、それを見る人が手に持っている技術と密接に関連しているようです。技術というのは、やはりそれを生業にしている人にしかわからない部分がどうしてもあります。そういえば、今週のNHK日曜美術館、そういう点ですごく面白い番組でした。応挙特集は、井浦新,伊東敏恵さんの回では、2回目だと思うのですが、前回より深いところまで潜っていました。やはり、NHK。民放レベルとは別次元にあります。
基本的に美術館は、1回見てそれでわかるものではなく、何度も同じものを見慣れてくると、新しい発見があります。この市美術館の常設展は何度も入っていますが、モディリアーニの《おさげ髪の少女》 なんか何回みても、「ああ、有名な絵だ」と見てしまうだけで、発見はありません。美術館を訪れるというイベント性と、そういうのは相似なのかもしれないと最近おもいます。
あまり、有名すぎる絵というのは、そういう意味でよろしくはないのかもしれません。有名な絵を見る自分というシチュエーションに酔ってしまうのでしょう。たぶん。酔うのはそれはそれで愉しいのですが。
ダリのパン籠 再び
ミレーの晩鐘。
この女性の像がカマキリに見えるらしいダリ。
ダリの絵に繰り返し出てくるモチーフ。
交尾のときにオスを食べてしまう。そして卵を産んだ体力を回復するとか。
母なるガラ、そして男好きで奔放なガラを必要としたダリ。
今週の日曜美術館。再放送(11月20日)はダリ好きなら。
漫画家・イラストレーターの寺田克也氏と横尾忠則氏の部分は必見。
ダリのパン籠。以前、ブログで書いたとき、なぜこの絵に惹かれるのかわからなかったのだけど、その答えをこの番組で提示してもらった。のかも知れない。
蓮実重彦氏が、図書館の話だったと思うのだが、ある分野についてこれでもかというくらい多方面から多面的に所蔵品を集めるとそこについてはもう図書館から違う次元へ行ってしまうことがあると(@「存在の耐えがたきサルサ」)。描写が表現を超えるという話をしていたときのことだったと思うのだけど。
表現しつくす。細密にそれを行うことによって、人がそのものに最初に出会った瞬間に立ち返ることができる。そうした超細密に改めて出会うその瞬間こそが、そこに立ち返るための唯一のチャンスであって、それこそが現実を超えた超現実の瞬間であると。人が最初に事物を認識する瞬間こそが、シュールレアリズムの本質なのだと。それを私(ダリ)は提供しているのだと。それが、「パン籠」であり、「写実こそが超現実なのだ」という私(ダリ)の言葉の本質なのだと。
らしい。
ただ、このミレーの晩鐘のように、最初にモノを見るときには、すでにその印象は彼自らが既に出会っているものに引きずられている。純粋なものの見方なんてものはない。なんていうふうにも思ってもしまうのだけれど。うーむ。まだ何かあるのか。プラトンのイデア的な何か。アカデミックなものの見方をしていたダリは、そのあたりまで深く沈潜していたのかも知れない。マドリードのサン・
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