華やかな進化
すべての問いに正解はあるけれど、正解は一つとは限らない。
とくに表現の場合はそうで。表象というか。作る側は表現だけど客側は表象として見ている。表現者は一つの答えを見つけるために他を削っているのだけど、観客は削られたもののなかにも可能性をみていたりする。
白隠の達磨は、年を経ることに単純化され、線が決まってくる。
ある女性漫画家が、たぶん日曜美術館「禅 “円”が語る美とこころ」だったと思うが、初期の白隠の達磨にはまだ迷い線がある。後期のそれには、迷いがないと。そんなことを語っていたように思う。彼女はプロの表現者なので、後期の達磨を真のものと観て評価するのだけれど、一般の観客は必ずしもそうではないだろう。
自分とかは、完成品もすきだけど、デッサンのほうに魅力を感じるものも多い。ダビンチなんか特にその例かもしれない。その当時の荒々しさとか、可能性とか、勢いとか、若さとか。その中にいろんな正解が隠されている。観客は、必ずしも表現者が求める解だけを求めているわけではない。
文明と同じく、文化も進化し深化するんだけど、それは物理学のような進化の仕方ではないし、両者は自ずと違う。
いきなりですがお題です。「円を描いてください」。
若い頃は、物理的に丸い円こそが解なのだと思ってきたけど、極めればそうなるし、人はそうならなければならないと思ってきたけど、たぶんそれだけがこの問題の解ではなく。例えば、二次元としての円じゃないものを解に見せるような、そんな人がたくさんではないけどいたほうが世の中面白いと思うのだが。灰谷健次郎の本の中には、そういう少年や少女が出てくるし、彼が担任した子供の中にもそういう子供がいてそのエピソードがエッセイだったかに書かれていたっけ。まあ、そんな人、あんまりたくさんいると困るのだけれど苦笑。
卑しく、いやらしい根性
北斗晶って最近のコはバラエティに出てるおばちゃんとしか認識していないのだろうか。
旦那の佐々木健介も彼女から習って、それはネタとして使っていたのかもしれないけれど、正直プロレスセンスも含めこの人のほうが上なのよね。自分はラス・カチョーラス・オリエンタレスの三田英津子と下田美馬ペアで、三田のデスバレーボムから入ったのだけど、ラスボスの北斗晶のこれをみて、やはり本家の技の技としてのキレに驚いたのだった。密に闘病生活を応援している。
まあ、そんなことはよい。小林秀雄の『人間の建設』のアマゾンレビューを見ていて、小林秀雄マニアなんていう人達がひそかにいるらしいと。昭和50年代にはやたら大学の入試問題で小林秀雄の文章が出題された。難解なのか、ただ読みにくいだけなのかわからないけれど、当時の受験生は嫌も応もなく、共通一次だろうが難関校となればなおさら小林秀雄は避けて通れなかったわけで。そういう人たちが、当時を懐かしむのか、当時解けなかった問題の敵を討つためなのかなんなのかわからないけど、小林秀雄の本を読んでいるらしく。茂木健一郎なんかもそのあたりだし、浅田彰が小林秀雄を目の敵にしているのも、その辺りからなんだろうと密かに思っている。自分は高校生のころは、相当な難題で、何言ってるのかさっぱりわからない部分とかあったのだけど、今となればだいたいわかるわけで、そういう大人にならないとわからない情緒というのがあるらしい。たぶん、『徒然草』なんかも今読めばわかるのだろうけど、古典が、というか古典の文法問題に当時辟易だったこともあり、いまだに手を付けてはいない。
で、小林秀雄に戻るが、自分が読んだ本をやっぱりその人達が読んでいて、それを味わった末の感想がこういうレビューにでているわけで。要は、何かを味わいつくそうという、卑しく、いやらしい根性が、人生を豊かにすることのほうが多いということで。ブラタモリとかまさしく、そんな番組だったりする。滋味というのはそういうものなんだろう。海老の脳みそとかさ。札幌の友達が、それは女の子だったのだが、脳みそは啜らんといかんとか、教えてくれて。啜るって。ズルズルと。かわいらしい女のコがだぜ。さすが海の幸を日頃から堪能している北海道の人だわいと思うと同時に、すげえぜと。北海道の女のコはすげえと。ヤバイと。まあ、そういうわけで、滋味、旨みの次くらいに認定してもらいたいものである。
人生のインフラ
その昔、サバイバルツールというのが、流行ったことがある。
少年マンガ雑誌の裏表紙の裏が通販で、子供心にうったえる品々を細々と載せていた時代だ。今でもそうなのだろうか。
いまどき0円らしい。
小林秀雄対話集を読んでいて、果たしてそれは小説が娯楽であり、文化の代表であった時代のことだが、対談者がすべて文芸の関係者であることにまず驚いた。
人間の体は進化しないかわりに技術にその足跡を刻み込んできた。進化しているのは人間ではなく、そういう技術とか学問のほうである。だから、進化の過程で、もはや肉体というのが必要な次元は過ぎ去っていて、それらは、機械が生まれるための蝉の抜け殻に過ぎないというのが、最近の多くのSF映画作品のバックヤードとなっている。
ここのところ、三重県でも地震が多くて、南海トラフ地震がもはやいつか発生するものではないだろうという意識が自分の中にあり。ただ、同じように考える人が多いのか、ホームセンターはそういう気配に敏感で、備蓄品や災害対応用品を店のコーナーにひっそり置き始めているのをよくみかけるようになった。
一時代前のSFの小説を最近読み返している。チューブ型のスカイウエイやら、奇抜な形の高層ビル群やら、はたまた立体テレビやら。インフラの技術革新が一体どこで発生するのかというのを予想できない地点でアウトと今から読めば彼らは断罪判定されてしまうのだろうけど、人の予測の範囲というのは、いつもどの程度あたっていてどの程度は違うという割合なんてある一定の数式を満たすのかもしれない。
地震対応のグッズを買っていて思うのは、今現在のインフラがある程度生きていることを予想して買っている品物と過去の人たちが生活していたであろう時代にタイムスリップして云々という品物とはおのずと違うということで、いまどき、火打石など売っていない。
体だけとか、身ひとつとかは幻想で、もしかしたら、身体は進化していないという、人間はだから進化していないのだという人の中の価値観の根本が昔と今とは変わらないというある種のユートピア的な思想も、どこかしら幻想であって、それが今を生きる人の希望をどこかで裏支えしている部分があるのかも知れない。そんなことを小林秀雄の対談集を読みながらふと思った。
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ボイジャー1号はいまごろどこにいるのだろうか。
夢とシュールレアリズム
夢をみた。
高校のころに好きだった女の子がでてきた。場所は名古屋の伏見の繊維街。近くに港があるが、そこからは離れている。そば屋の前、お客さんの後ろに並んで待っている。彼女は前にいる。腰に手をあてる。骨盤をつかんで、こちらを向かせると、それはもはや彼女ではないが、彼女の面影をもつ誰かで、そんなことはどうでもよくなっている。
夢には複数の消失点がある。いずれの消失点も、自分にとって本質的な欲望に向かっているのだろうが、その先は遠すぎてわからない。場所もおかしければ、時系列もおかしい。
だが、起きたときにはそれらがすべて失われていることに気づく。


