象の夢を見たことはない -41ページ目

初期衝動

自分にとっての初期衝動って何なのだろう?

あるいは、何だったのか?

 

たぶん、それは仕事において現れる。

はたして自分には現れていたのか。否というほかない。

船出というのは、でも計算されたものではなく、混沌としているはず。

 

だが、その混沌の中にこそ、初期衝動があって、それが、強い人だけが、何かを世界に問うことが出来る。

そしてそれが既に完成されていること。それは選ばれた人だけの特権なのだろうか。

 

年末、LAZYgunsBRISKYのライブで買ったCDは実は彼女たちの1stシングルで。

果たしてライブでは聞いてたのだけど。

 

 

これが初期衝動だったのか!!

既に完成している。

 

おや?

否、彼女たちの1STアルバムのほうがこのシングルより先に出ている。

なんとなればセカンドミニアルバムよりあとだ。

だとすると、このシングルはなんなんだろう?

 

こわいほど完成された初期衝動。果たしてそういうのがあるのだろうか。

結論としてはある。そういう人は確実にいる。

日常からはわからないし、わかりえない。

それは、生活を超越して秘匿されている。

 

だが、伸びしろというものは、あるいは可能性というものは初期衝動を超えて現れる。その実現のためには何をすべきかということなんだろう。そしてそれは、おそらく自分一人だけでは達成できないところにある。

 

一人では行けない世界へ。

オートマタ

言葉は、脳のこの部分に依る的なそれを司る部署という観点で関連付けられている。そんな機械工業的な観点というのが20世紀の科学だったのだけれど、20世紀の終わりぐらいから、相互機能の連関によってある機能が生み出されていることもあるんじゃないかというのが出てきた。表象として出てくる機能が、ある構造に還元できないというか。

 

中央集権とネットワーク。そういう2進法的な考え方は終焉を迎えようとしている。であれば、神と悪魔という2進法ももう終わってもいいころで、新しい宗教が生まれてもよさそうなのだが。

 

オートマタ。あるいはオートマトンということが注目されてきたのは、もともとはそういう背景があるのだろう。チューリングに光があたって映画になったのもそういう学術潮流からか。AI自体、その概念はもう古いのかもしれない。チューリングもその限界を予測していた。このあたり、新しい学問のようなので、注目していきたい。

違和感

違和感。最近感じることが多かったためか。そういうワードが今意識の上のほうに鎮座している。考えてみれば、ソフトウエア開発をしていたときも、その感覚を大事にしていたのだった。「感じ」なのだよね。論理が先にくるなどあり得ない。

 

何かに対して違和感を持つことが発見につながるわけで。そういやセレンディピティっていうのも、違和感から始まるんじゃないんだろうかと今ふと気づく。そこから広げていく。そこを基地にする。そういう作業が今自分に必要なのだろうか。

 

言語化できる前にフレームワーク化されている非言語によるスキーマ。飛球の落下点に入ってボールをキャッチするのは言葉によっての理解に依らない。絵を理解するのもそう。直観やひらめきは非言語的な物事の理解であって、それが論理の前にある。なお、余談だが、言語自体、その発達の途中で前言語的であり、前概念的な構造に沿って言葉そのもののイメージスキーマを構築する。前言語的なところまでもどって、言葉を探して組み合わせれば、新しい言葉を作れるわけで、コピーライターってそういう職業だろうと思う。どうでもいいけど。

 

違和感というのは、そういう前言語的なもの、非言語的なものであり、そこをどう拡大していくかっていうところなんだろう。だが、それを一枚の絵にするって…。今ある違和感か。うーむ。違うな。それはバネにするものなのかもしれない。

過適応

今日も酔っ払いである。
 
『コンビニ人間』という言葉を聞いて、とりあえずアマゾンを確認した。
 
コンビニ人間 コンビニ人間
 
Amazon
 
薄々で思ってはいたのだが、安部公房の『箱男』を思い出す。それをこの表紙で確認した。この世界に帰属する場所がない。そしてハコの中に囲まれた世界に閉じこもりながら、世界を覗く。
 
『箱男』で思い出すのは剃刀である。多くの道具をそろえることより、1本のカミソリをどんなふうにいろんな使い方ができるかというのを知っていることのほうが生きることの本質なのだ。そんなことを言っていたように思う。段ボールの中にすむ浮浪者然とした彼は、外からみたらまっとうな浮浪者であり、それ以上でも以下でもない。
 
安部公房には、世界から離れて自分自身の世界でしか住めない、しかもそれで自給自足する人達を書いた作品が多い。足からカイワレ大根が生え、それを食べて生活する人だとか、自分のフンを食べながら、回転する虫だとか。そういえば『砂の女』もそういう話だ。
 
カイワレ大根が足のスネから生える人は病院に入院しているのだけど、夜中に彼を乗せた寝台が病院から出て道路を走り出すというシーンがある。寝台が彼の世界なのであり、そこから世界を見るわけである。考えてみれば、病院というのも、外から隔離されて独立した世界であり、もしかしたら安部氏が医学部に進んだのは、医者になりたかったからではなく、病院に住みたいと思っていたからなのかも知れない。
 
過適応の果てに人が選ぶ世界とは。他者の自分に対する意識に敏感であった彼と、現代の若い人達のそういう傾向が重なって見えてしまう。安部公房氏の他者の目に対する、ある種の自意識過剰さについては、河合隼雄氏の対話集で彼の隼雄氏に対する受け答えで確認できる。
コミュ力過剰によるアレルギー反応。いや、逆だ、アレルギー反応としてのコミュ力過剰。皮膚あるいは表層というのは薄いのだけれど、まずそこに拒否反応が起こる。弱い本当の皮膚を守るために、段ボールを新しい仮の皮膚にした。「逃げ恥」だってそういう物語だったのだ。見たことないけど。たぶん全然ちがうな。だが、箱男という『職業』を選んだ彼と本質は同じ。仮の何かで覆わなければならない。囲まれている必要がある。うすっぺらい何かによって。もっとも、薄いと思っていた皮膚から、実は根がドバーっと伸びている。そんなことが対談でも話題になっていた。

果たして、では、それは本当に過適応なのかどうなのか。ディストピアがユートピアであるという考え方だって在り得るんじゃないかとそういうことを安部氏は言ってたのかもしれないといまになって思い至る。『感情や非理性のような非論理的・非合理的なものを排除した、効率的な理想の社会』をユートピアとした場合の。それを肯定するのもありじゃないのかと。皮膚というのは境界だけれど、実は境界にすべてがあるんじゃないかと。ハコを失った箱男は、もはや誰なのかわからない。タモリが、彼にとっての境界であるサングラスを取ったらもはや誰でもなくなってしまうようなものか。
 
表面上は、平野啓一郎の分人っぽいけど、着地点は全然違う。彼はどっちかというとまだこっち側の人で仮面は自分が握っている(と思っている)、だが安部さんは向う側の人のような気がする。それをわかっていながら、戦死するほうを選んだと、そう河合隼雄氏はあとがきで書いていたように記憶している。心貧しき人は幸いである。いや、心貧しき者こそ人で在り得るのかも知れない。
 
そういえば、いまだに島田雅彦って誰だか知らない。なんかそういう名前の漫画家っていなかったっけ?バブル期の人物ですな。世界を読みきれなかった男だ。だが、好きだな、こういう人は。

年始のご挨拶

情熱大陸?ってことで、リオの君が代が神アレンジ?ってところから、そういえば、リオの閉会式で日本人にとって一番大事な引き継ぎを見てなかったことに気づく。秋元でも、ジャニーでも、ヒロでもなくて今更ながら安心しました。
 
明けましておめでとうございます。
 
拡張現実やVRが世界を覆うのではなく、それらはプロジェクションマッピング的に現実を補う未来マッピングのために使われる。仮想未来は仮想であって、それは未来ではなく、未来のための可能性の一つであるということ。らしい。とりあえず、描いてみる。現状を踏まえて。そこからしか始まらない。
 
現実があるから、それをどう変えていくか。
昨年は自らを使って現状認識を終えました。(←いま、ココ)。
とりあえず、今の電気代をかんがえると、エアコンの方が1464円安いそうです。
ん、おーこんなのがあるのか。東京?いけんがや。ええなあ、東京。
ということで、今年の目標は、『毎日を塗り替えろ』にしよう。
年始の挨拶を忘れていました。
今年もよろしくお願いします。
STAY TUNE!!✌︎('ω'✌︎ ) chao!!