初期衝動
自分にとっての初期衝動って何なのだろう?
あるいは、何だったのか?
たぶん、それは仕事において現れる。
はたして自分には現れていたのか。否というほかない。
船出というのは、でも計算されたものではなく、混沌としているはず。
だが、その混沌の中にこそ、初期衝動があって、それが、強い人だけが、何かを世界に問うことが出来る。
そしてそれが既に完成されていること。それは選ばれた人だけの特権なのだろうか。
年末、LAZYgunsBRISKYのライブで買ったCDは実は彼女たちの1stシングルで。
果たしてライブでは聞いてたのだけど。
これが初期衝動だったのか!!
既に完成している。
おや?
否、彼女たちの1STアルバムのほうがこのシングルより先に出ている。
なんとなればセカンドミニアルバムよりあとだ。
だとすると、このシングルはなんなんだろう?
こわいほど完成された初期衝動。果たしてそういうのがあるのだろうか。
結論としてはある。そういう人は確実にいる。
日常からはわからないし、わかりえない。
それは、生活を超越して秘匿されている。
だが、伸びしろというものは、あるいは可能性というものは初期衝動を超えて現れる。その実現のためには何をすべきかということなんだろう。そしてそれは、おそらく自分一人だけでは達成できないところにある。
一人では行けない世界へ。
オートマタ
言葉は、脳のこの部分に依る的なそれを司る部署という観点で関連付けられている。そんな機械工業的な観点というのが20世紀の科学だったのだけれど、20世紀の終わりぐらいから、相互機能の連関によってある機能が生み出されていることもあるんじゃないかというのが出てきた。表象として出てくる機能が、ある構造に還元できないというか。
中央集権とネットワーク。そういう2進法的な考え方は終焉を迎えようとしている。であれば、神と悪魔という2進法ももう終わってもいいころで、新しい宗教が生まれてもよさそうなのだが。
オートマタ。あるいはオートマトンということが注目されてきたのは、もともとはそういう背景があるのだろう。チューリングに光があたって映画になったのもそういう学術潮流からか。AI自体、その概念はもう古いのかもしれない。チューリングもその限界を予測していた。このあたり、新しい学問のようなので、注目していきたい。
違和感
違和感。最近感じることが多かったためか。そういうワードが今意識の上のほうに鎮座している。考えてみれば、ソフトウエア開発をしていたときも、その感覚を大事にしていたのだった。「感じ」なのだよね。論理が先にくるなどあり得ない。
何かに対して違和感を持つことが発見につながるわけで。そういやセレンディピティっていうのも、違和感から始まるんじゃないんだろうかと今ふと気づく。そこから広げていく。そこを基地にする。そういう作業が今自分に必要なのだろうか。
言語化できる前にフレームワーク化されている非言語によるスキーマ。飛球の落下点に入ってボールをキャッチするのは言葉によっての理解に依らない。絵を理解するのもそう。直観やひらめきは非言語的な物事の理解であって、それが論理の前にある。なお、余談だが、言語自体、その発達の途中で前言語的であり、前概念的な構造に沿って言葉そのもののイメージスキーマを構築する。前言語的なところまでもどって、言葉を探して組み合わせれば、新しい言葉を作れるわけで、コピーライターってそういう職業だろうと思う。どうでもいいけど。
違和感というのは、そういう前言語的なもの、非言語的なものであり、そこをどう拡大していくかっていうところなんだろう。だが、それを一枚の絵にするって…。今ある違和感か。うーむ 。違うな。それはバネにするものなのかもしれない。
過適応
果たして、では、それは本当に過適応なのかどうなのか。ディストピアがユートピアであるという考え方だって在り得るんじゃないかとそういうことを安部氏は言ってたのかもしれないといまになって思い至る。『感情や非理性のような非論理的・非合理的なものを排除した、効率的な理想の社会』をユートピアとした場合の。それを肯定するのもありじゃないのかと。皮膚というのは境界だけれど、実は境界にすべてがあるんじゃないかと。ハコを失った箱男は、もはや誰なのかわからない。タモリが、彼にとっての境界であるサングラスを取ったらもはや誰でもなくなってしまうようなものか。

