過適応 | 象の夢を見たことはない

過適応

今日も酔っ払いである。
 
『コンビニ人間』という言葉を聞いて、とりあえずアマゾンを確認した。
 
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薄々で思ってはいたのだが、安部公房の『箱男』を思い出す。それをこの表紙で確認した。この世界に帰属する場所がない。そしてハコの中に囲まれた世界に閉じこもりながら、世界を覗く。
 
『箱男』で思い出すのは剃刀である。多くの道具をそろえることより、1本のカミソリをどんなふうにいろんな使い方ができるかというのを知っていることのほうが生きることの本質なのだ。そんなことを言っていたように思う。段ボールの中にすむ浮浪者然とした彼は、外からみたらまっとうな浮浪者であり、それ以上でも以下でもない。
 
安部公房には、世界から離れて自分自身の世界でしか住めない、しかもそれで自給自足する人達を書いた作品が多い。足からカイワレ大根が生え、それを食べて生活する人だとか、自分のフンを食べながら、回転する虫だとか。そういえば『砂の女』もそういう話だ。
 
カイワレ大根が足のスネから生える人は病院に入院しているのだけど、夜中に彼を乗せた寝台が病院から出て道路を走り出すというシーンがある。寝台が彼の世界なのであり、そこから世界を見るわけである。考えてみれば、病院というのも、外から隔離されて独立した世界であり、もしかしたら安部氏が医学部に進んだのは、医者になりたかったからではなく、病院に住みたいと思っていたからなのかも知れない。
 
過適応の果てに人が選ぶ世界とは。他者の自分に対する意識に敏感であった彼と、現代の若い人達のそういう傾向が重なって見えてしまう。安部公房氏の他者の目に対する、ある種の自意識過剰さについては、河合隼雄氏の対話集で彼の隼雄氏に対する受け答えで確認できる。
コミュ力過剰によるアレルギー反応。いや、逆だ、アレルギー反応としてのコミュ力過剰。皮膚あるいは表層というのは薄いのだけれど、まずそこに拒否反応が起こる。弱い本当の皮膚を守るために、段ボールを新しい仮の皮膚にした。「逃げ恥」だってそういう物語だったのだ。見たことないけど。たぶん全然ちがうな。だが、箱男という『職業』を選んだ彼と本質は同じ。仮の何かで覆わなければならない。囲まれている必要がある。うすっぺらい何かによって。もっとも、薄いと思っていた皮膚から、実は根がドバーっと伸びている。そんなことが対談でも話題になっていた。

果たして、では、それは本当に過適応なのかどうなのか。ディストピアがユートピアであるという考え方だって在り得るんじゃないかとそういうことを安部氏は言ってたのかもしれないといまになって思い至る。『感情や非理性のような非論理的・非合理的なものを排除した、効率的な理想の社会』をユートピアとした場合の。それを肯定するのもありじゃないのかと。皮膚というのは境界だけれど、実は境界にすべてがあるんじゃないかと。ハコを失った箱男は、もはや誰なのかわからない。タモリが、彼にとっての境界であるサングラスを取ったらもはや誰でもなくなってしまうようなものか。
 
表面上は、平野啓一郎の分人っぽいけど、着地点は全然違う。彼はどっちかというとまだこっち側の人で仮面は自分が握っている(と思っている)、だが安部さんは向う側の人のような気がする。それをわかっていながら、戦死するほうを選んだと、そう河合隼雄氏はあとがきで書いていたように記憶している。心貧しき人は幸いである。いや、心貧しき者こそ人で在り得るのかも知れない。
 
そういえば、いまだに島田雅彦って誰だか知らない。なんかそういう名前の漫画家っていなかったっけ?バブル期の人物ですな。世界を読みきれなかった男だ。だが、好きだな、こういう人は。