象の夢を見たことはない -40ページ目

英語参考書

以下、個人的な評価。

 


SAPIX中学部の参考書。中学生参考書としては難しいかもしれないけれど、これくらいじゃないと、意識高い系中学生の質問に応えられない。応えるというのは、単にその場限りの質問に対しての答えというだけでなく。 

例えば、人にモノをという場合のSVOO構文(S+V+人+モノ)が、モノをto人にというSVO構文(S+V+モノ+to+人)に書き換わる場合とモノをfor人にというSVO構文(S+V+モノ+for+人)に書き換わる場合があって、どんな動詞がto型でどんな動詞がfor型なのかっていうのが、その動詞の属性に基づいてはっきり書いてある。これは、ロジカルにものを考える系の中学生には切実な疑問であって、英語はそういうものだから覚えるしかないなんていう答えにならない答えをよく与えている先生ならちょっと考えた方がいいよってことだろう。なかなかここまで書いてある参考書にはぶつからない。☆☆☆

 

 

高校生用としては、これかな。FORESTより詳しい。☆☆

 

一億人の英文法はまだ見てないからわからない。おなじく、大西 泰斗  (著), ポール・マクベイ (著)の「ネイティブスピーカーの前置詞―ネイティブスピーカーの英文法〈2〉」を持っていたこともあったけど、最初は納得するんだけど、後ろの方はかなり無理やりな部分もあってその部分がちょっと…っていうのは、NHKの「しごとの基礎英語」の感じとにているかな。ただ大西氏が苦手なだけなのかも知れないが笑。

 

綿貫氏の「表現のための~」はお勧めできない。現在進行形に近接未来(be going toだけでなく)についての記述がないのがその理由。同じ綿貫氏の「ロイヤル英文法」にはあるんだけどね。不思議だ。ただ、「ロイヤル英文法」買うんだったら、INSPIREでこと足りるなという印象。だいたい、学問というのは進化しているわけで、それは語学でも当たり前に言える。

 

なお、進行形の話は、ケンブリッジの「English Grammar in Use」には、当たり前のことのように書かれている。上記のSAPIXなんて中学生用にもかかわらず、さらに丁寧にわかりやすく書かれている。

イギリスから来た男

 

The Limey スティーブン・ソダーバーグ

 

「エリン・ブロコビッチ」「トラフィック」 の前なんていう絶妙な位置の作品。ソダーバーグ的に。

 

村上春樹の「騎士団なんちゃら」はまだ読んでいないけど、河合隼雄氏との対談で村上春樹氏が赤裸々に語っていることからすると、オフレコで活字にできない部分がかなりあったのだろうと。ユングというのは、現在の心理学から異端だったりするのだけれど、現代の心理学は表層化していて、理解はできるけど、心の奥までずっしりと重みのある角度ではすっぽり入り込んでこないのだよね。物語性の欠如。


そういえば、この映画もそうだけど、男親の娘に対する過剰な愛情というか、嫉妬というのも、あるいはその逆で、娘の父親に対する承認欲求とか。そういうのが、確かにあるんだろうけれど、もうそのあたりの深さが垣間見えるような映画というのもあってよさそうなものなのだけれど。前者については、この映画なんかはそうだけれど、まだ足りない。たぶん、エディプスコンプレックスほど根源的でないのか、あるいは禁忌なものでもないのか。あるいは、死に至る禁忌というものの本質は、多分にオトコ社会ありきの社会的なものであるのかも知れない。罰せられない=リンチ死がない的に。禁忌は、制度という死刑にではなく、私刑であるところに存在する。そういう意味での社会性というのは考えているより生理的なところまで深く潜っているんだろう。バタイユのエロティシズムはもう捨ててしまったんだが、禁止というアレはもっとアカデミックにも、ユング的にもそのあるべき価値へ位置付けられるべきなのだ。

 

そんな感じで、村上春樹が「海辺のカフカ」で書いたほどの何かって、誰もまだ書いてないんじゃないんだろうか。ただ自分が知らないだけなのか。もしくは、社会がそれほど進化してないのか。吉本ばななが吉本隆明について、そういう物語レベルで深く沈潜してなにか書いてたらすげえなとは思うが。。

まあ、酔っ払いの戯言。

 

そういえば、例えばAIであるとか、ロボットであるとかが、生物の次の世代の「生き物」であると仮定した場合、彼らが自らの「禁忌」を超えていく能力を備えているかどうかというのが疑問だ。生物の定義というのは、昔からいろいろあるけれど、自らの禁忌を超えていく力がそのものに根源的にあるかどうかというのが、あるいはこの宇宙の誕生の秘密と密接にリンクしているのかもしれない。もっとも、それは破滅を必然的に内包しているのだけれど。

 

ふと思ったシリーズ

前置詞の問題を解いていて、もしかして前置詞って

その意味を考えるだけで海馬の空間認識能力を

活性化させるんじゃなかろうかとふと思った。

 

 

日本語にはそういう機能があんまりない。

苦手だ。英米圏の人とは空間処理については直感レベルで翻訳が必要なのか。

二次元文化で、間接照明はヘタだし、平たい顔族。

 

<参考>

脳の中で、自分が今どこにいるのかを把握し 海馬でマップを作成する複数の空間把握細胞の発見

モンスターズ

久々に同じものを借りるという過ちを犯してしまった。

 

モンスターズ/地球外生命体

 

メキシコには行ったことはない。けれど、第三世界と呼ばれる国には旅行者の目や体験として共通の何かがある。日本人からすると、一見混沌としているようにしか見えない世界のなかに秩序がある。その秩序はすごくシンプルなものだ。

 

そういう国を旅していると、一体自分は目的地につけるのだろうかと思うことが多々あるのだけど、結果的に目的地に着けている。信用というのが生きているからで、それが人が生きていく上で必要不可欠なことであることに気づく。シンプルというのはそういうことで、ややもすれば、日本のほうがそういうところで「だいじょうぶか?」と思えたりもする。もちろん、駆け引きだとか、金の力だとか、そういうのはある。だから、非常に疲れる部分もあるのだけれど、人と人という裸部分が露出しているので、生きている実感ははるかにそういう場所のほうが大きく感じる。案外、お互い薄着であることもそういうことに関係しているのかもしれない。東南アジアでもインドでも、同じ国の北と南の人を比べると、南のほうがあけすけで、北のほうが陰湿だ。だまし方がいやらしいのが北で、あけすけなのが南だったりする。ベトナムもそうだし、インドは北はいったことはないけれど、人を見ているとどうやらそうらしい。

 

そういった国では、恐怖というのも、希望というのも、手触りがあるもので、必ず目に見える形をもっている。実体があることってすごく大事なことなのだということをなにかにつけて便利な日本ではすっかり忘れてしまう。

 

シンプルに世界を感じること。生きること。

 

 

 

実体のあるものまで落とし込まないとその仕事や生活に意味はない。

いい加減なお前にとってはまさにそうなのだと思いしれ、オレ。

 

私の中のスフインクス

自分は佐々木幹郎という人を知らなかった。というかまだ知らない。詩人らしい。詩人というひとは自分にとっては極端な印象の人しかいない。鼻もちならないあまのじゃくの独善者か、人として添えれるなあという印象の人か。まあ、案外前者も嫌いにはなれなかったりする。というか嫌いだが気になる。たぶん、自分がそうだからだろう。この人は、後者のような気がするが、まだ本を読んでいないのでわからない。だが、中原中也は間違いなく自分にとっては前者だ。だが、この人の詩も実は読んだことがない。ただ知っている。だからそういう気がするだけなのだが。小林秀雄とかそのあたりの人とのエピソードからそう感じているだけだ。

 

 

どんな人か気になって検索したら、またもや松岡正剛である。まったくこの人は…。

 

そういえば、人形というのは不思議な存在である。それを感じたのは舟越桂の人形を三重県立美術館で見たときだ。モノではなく、人間でもない。その中間の存在の妙な生き物。あの感覚はいったいなんだったのだろう。ああいう類のモノは、実物を直にみないとその感覚はわからない。まあ、なんでもそうなのだろうが、モノとの距離が問題なのだ。あるいは、距離感。いや、むしろ気配といったほうが近いのか。

ん?「稜威」(いつ)か。なるほどね。そういうことか。