象の夢を見たことはない -44ページ目

直観について

人は、自分が生きるための情報を外部から得ようとする。

 

マイケル・ポランニーが指摘した暗黙知の正体というのは、結局そこにつきるような気がする。あたりまえだけど、これは人に限ったことではない。動物にも、あるいは植物にもある。

 

植物の地上部は光の影になる部分に、成長を促す植物ホルモンオーキシン)を移動させ、日陰側の成長を促すことによって、日の当たる方向に向き、葉などが効率よく光合成できるよう成長する。(by wikipedia 『光屈性』)。

 

赤ちゃんに指をさすと指をさしたほうを見るのだけれど、逆に赤ちゃんは生後9か月から10カ月ごろから指さしを始めることが多いとか。猫に指さしをしても、猫は指をさした方はみない。彼らには指をさして、モノを指し示すという習慣はない。

形式知とは、この指さしの行為そのものを表現したものだと思う。それがない人には伝わらない。幾分かは、生得的なモジュールであり、幾分かは経験的なモジュールである。経験的なモジュールは生得的なモジュールを基盤としていて、生得的なモジュールと直接的なインタフェースを持たない経験的モジュールは躰に定着しにくい。

 

直観は、その生得的なモジュールを持ってない人にはさっぱり得られないし、経験によっても磨けない。共感の奥深くにあるものなんだろうと成宮氏に対する壇蜜っちゃんのコメントを見てふと思った。

 

坂口安吾と小林秀雄の対立については、以前から噂には聞いていたが、浅田彰氏の記事でそれが小林秀雄対話集にあることを知り、慌てて買った。

 

要は、それが難しい。一読しただけではわからなかったので、坂口安吾の『堕落論』を思い出して考え考えしながら読んでいたのだが、ああー、そういうことかと。浅田彰氏はそうであったのだと確信した。『堕落論』を読んで、どうも坂口安吾氏が気に食わなかった理由がこの対談を読んではっきりした。彼は錯誤者だ。客観的事実と主観的認識との不一致。浅田氏の指摘とは逆に、小林秀雄の坂口の本質の喝破具合がこの対談では逆に光っていると思う。浅田彰と村上龍の付き合いの理由もなんとなくわかった。ゴッホの絵「アルルの部屋」は、そのパースのいびつさ故に心に残る。そのパースのいびつさを極端に形而上化したものが例えば、ピカソのキュビズムだったりする。同じように複数の消失点をもつ絵画は多い。キリコの絵だってそうである。絵の不安定さが、逆に我々の現実の不具合や人の不完全さを際立たせて、我々の認識を揺らす。という効果をもつのだけれど、それで長編小説を書くと全体がいびつな住めない家になる。それが初期の村上龍の長編で、そのいびつさ具合を浅田彰と村上龍らは共有しているのだとそう直観した。キュビズムまで行っちゃうと、それはもう観念論で、生得的なモジュールと直接のインタフェースをもっていない。そこが自分にとってはインチキ臭いのである。ただ、見ているものは同じで、案外行き着く先も同じ場所にあるのかもしれないが、それはかなり遠い場所に自分には思える。同じものの表と裏くらい遠い。観念でできた家には、人は生活を持ち込めない。

 

ただ、人はむちゃくちゃしない限り、得るものはそう多くはない。そういう人だけが得られる境地もある。彼らにはあるそういうエネルギーが自分には少ない。たぶん、そこが本質。

 

そうか、松方コレクション展。そんなのがあるのかと思ったらもう終わっていた

直観力ねえな、オレ。見る前に跳ぶなんていう離れ業はオレにはできないが、行動や形に表せない直観力なんぞにはさらに存在の意味も意義もない。

まほろし

最近、同じ映画を見てても結末を忘れていることがある。

途中のシーンを見て、「あー、これ、たしか見たな」と。都合のよいことに、途中だけ覚えていて結末をわすれている。ラッキーなかんじだ。年をとるとはそういうことか。

結末になど意味がない。続いていることが人生なのだとそんなふうな年になったからか。ま、ただ単に忘れているだけなのだが。

 

会社に入って新横浜に配属された。住んでいたのは田園都市線の市が尾だった。まだそのあたりの街の感じはそれほど変わってはいない。駅裏は国道246が走っている。そこから、藤が丘、青葉台、そしてまだ周辺に田んぼが残る田奈を過ぎると長津田駅。そこで、横浜線に乗り換える。十日市場、中山、鴨井、そして小机ときて、新横浜で降りる。

 

長津田で横浜線の逆方向へいくと、成瀬で、次が町田である。まほろ駅前。

住んでいながら、案外、行かなかったな。横浜のほうへ行っちゃうからね。

そういう場所なのだ。

 

 

東京には住みたくはなかったけれど、あのあたりは住みたい場所だなあ。もう無理だけれど。知らないうちに過ぎてしまった。けど、過ごした実感はいまだに残っている。そんな年代。

こんなカッコいい人生ではなかったな苦笑。

まほろ駅前多田便利軒

塾の講師をしていると、親の代行業をしているように感じることがある。

 

熱心に説明していると熱心に聞きはじめ、体も寄ってくるけど、そうでないとすぐその子たちの心が離れていくのがわかる。やってて面白いのは、成績があがったときがやはり一番なのだが、それは仕事の成果としての喜びであって、仕事の過程での喜びというのは、日常のそういう場所にある。もっとも、そういうのを続けていれば成績はあがるのかもしれないけれど、それは日常と同じで、行ったりきたり、勝ったり負けたりという感じか。

 

昔は、夜は親が近くにいて、そばにいなくとも気配を感じていた。

自分では気づかなかったが、それが安心して勉強できる背景になっていたのかもしれない。今の子供たちは、どうなのだろうか。自分は親ではないのでわからない。代行業をしていても、結局、それは親ではないのである。

 

Trevor Young

そこまでもとめてない

あー

 

結論から言うと、

 

姿勢の問題

 

なのだよな。言葉ではなく。

なんだか誤解されているようだけれど。

「同じ意味」で使っていない時がある。

マジックワードが嫌いだ。

特に影響力のある人、政治家やニュース解説をする人や文化人と呼ばれる人がこれらを使っているシーンをみると、チャンネルを変えてしまう。例えば、国民とかそういう言葉。まあ。たいていのニュースでは、解説者といわれる「本業は何かわからない人」が使っている。なので結局ああいう番組は全く見れない。まあ、バラエティとしてみればいいのだろうけど、そこまで「大人」になりきれない。

 

実は、時間芸術と言う言葉も、坂本龍一のたぶん『スコラ』だったかで、誰かが音楽は時間芸術なのでどうとか。「それが、なにか」というその人にとっての意味を説明してくれるのならまだしも、「それじゃ何も言っていないのと同じだよ」という使い方をしていて。要はそれでその人の恰好がつくわけで、ハイカルチャー的に。そのウソ臭い自尊心やインチキに腹が立ったのである。だから、敢えて「絵画だって、受け手にとっては時間芸術だろ?」っていう記事をこないだ書いたのだけど。

 

とはいえ、人は自分の中にないものには腹を立てたりしない。自分も知らずにつかっていることはあろう。

 

同じように、まったく逆の意味で、言葉の正式な正しさを語源に従って解説して、だから、「大衆」は間違っているとかいう人も嫌いである。言葉は、それを「間違った意味」で使う人が多かったら、それはもうそっちの意味もその時代にはあるのだと。「助長」なんて、今語源の意味で使っている人はいないだろ?と。

 

この二つのタイプの人達、自分はこの人たちのなにが嫌いなんだろうと思っていたのだが、知人のブログを読んでて「はっ!そういうことか」とわかった。

 

同じように使っていながら、同じ言語を用いる人でも、「同じ意味」で使っていない時がある。

 

「同じ意味で使っていない」こと、そして「その人がどういう意味でその言葉を使っているのか」が、受け手にわかれば、それはそれでコミュニケーションはすでに成立しているのだと思う。

そうでない人、同じ意味で使っているという幻想をわざとつかってウソ臭い話をするカッコつけやら、偽善者やら、逆にそれで「同じ意味で使うこと」を自分標準で強要する人も嫌いなのである。

 

もっとも、それが嫌いで言葉を尽くしたとしても、それで自分が思っていることが受け手にちゃんと伝わることを期待してしまうこと自体、自分の甘えなのかもしれないけれど。

たぶん、姿勢の問題なのだ。その言葉を発する人がどういう姿勢なのかって、言葉を発する際に既に直観的にわかる。そっちのほうが先で、言葉云々っていうここに書いたことなんて結局は後付けだったりする。今書いていて気づいた。

 

ちなみに、自分がブログを書くのは、書いてしか気づかないことが多いからで、口べたな人間は実はそういう人が多いのかもしれない。アウトプットしないと気づけないことが多いのだけど、あるいはアウトプットしないと本当の意味で自分の考えにも、また自分の誤りにも気づけない。だから、ブログを書いている。それが自分がブログを書く意味だったりする。よく、小説家は物語を書いて昇華するとかいうけど、あれって実はそういうものじゃなくて、自分が自分に気づきたいだけで、それが誤りであることも含めて。結局読んでいる人が自分のあり様に気づく人が多いか否かってのが、よかれあしかれ「大衆(笑)」にもてはやされるか、否かってことだろう。誤りも含めて、それが共感できるか否か。それぞれの人にそれぞれの人の人生のコアがあるわけで、それを愚弄する二つの典型的な姿勢に腹が立つのである。