象の夢を見たことはない -259ページ目

基準

まえ、マレーシアに住んでる友達に、バリのレストランで出された

ニャンちゅうなブログ-フルーツ

こんな感じのフルーツ盛り合わせをみせたら、そのときKLでの結婚式を考えてた彼女は、「こういうのが日本人女子の好みなのよ」とダンナを教育していた。

国によってサービスというものの基準は違うのだけれど、『丁寧に作る』というのはお客には共通に尊ばれる。
そんなふうに思う。
だけど、基準がわからない人にそれを見せるためにはこういう写真で見せるような『例』が必要なのである。

「百聞は一見にしかず」

いくら、ガイドラインを読ませようが、理想を語ろうが、モノがなきゃそんなもの誰にもわからん。

モーゼの十戒の映画で、海が割れるシーンがあるのだけれど、あのシーンがなかったら誰もその示すものはわからない。すごいとは思わない。

実物のもつ力というのは、そういうところで幅を利かせる。

銀座

銀座。

夜の世界夜

なのだが、ふつうのサラリーマン、しかも、某おのぼりさん(←自分)の銀座のイメージは、

これだメラメラ

ニャンちゅうなブログ-銀座といえば

このおさんにひひ
ナイルカレーのおさんである。もはや、シャツから顔を思いだすというこのイカしたセンスあせる

おもわず成城石井で見つけたので買ってしまった。

ニャンちゅうなブログ-ナイルカレー

昼休みに、知らないサラリーマンのおっちゃんと相席で食ったココのカレーは、いまだに採点不能なところが、このおさんのイメージそのままだったりする。
カレーの値段含め、高田純次となぜか自分の中でイメージかぶってしまう。
すげーテキトーな感じなのだが、一度見るとなぜだか忘れられない。もういっぺん見たくなる感じ。

カレーカレーライスについてはギーうめぇ~が決め手であったことは覚えている。

このレトルトはどうなんだろはてなマーク まだ食べてない。

でもたぶん、店に行かないとこのおさんの雰囲気含めて、ナイルカレーカレーライス体験できないと思います。

精神に依存する美

美と醜。

乳児が判断する『人の顔の美』と大人が判断するそれとについて、ジュディス・ラングロワの興味深い統計結果がある。

心理学者ジュディス・ラングロワ(Judith Langlois)は、何百もの人間の顔のスライドを集め、次にそれらがどれだけ魅力的かを大人たちに評価してもらいました。
それを次に3ヶ月と6ヶ月の乳児たちに見せました。
すると興味深いことに、乳児たちも大人が魅力的だと思う顔をより長く、しかもずっと長く見つめたそうです。
さらにそれらは、年齢・性別・人種は問題ないようだということも発見しました。
赤ちゃんはとにかく最も魅力的な男性・女性・赤ちゃんをより長く見たそうです。
写真に写っている人が黒人であるか、アジア人であるか、白人であるかに関係なくです。
また、母親がどれだけ魅力的であるかや、自分がどの人種に属しているかとは無関係にです。
(出典:留学生必須講義2 心理学入門)


マラッカにある「民族と美の博物館」に行ったとき感じたのだが、首長族だったり、顔に刺青をしていたりする現地人だったり。

そういう人の写真でもやはり綺麗な人は綺麗で、魅力的な人は魅力的だったり。
で、結局はそういう人の写真が飾られている。

一方、精神に依存する美というのがあって、それは他の民族の人から見ればやはり「滑稽」だったりする。

レダン島であったアルゼンチンの女の人は、

ニャンちゅうなブログ-美人

正直、そんな綺麗な人ではなかったのだが、美人の人が持つ共通の雰囲気を持っていて。。

このあと、彼氏が島におっつけ来るはずだったのだけれど、結局いろいろあって来れなかったらしく。
ちなみにアメブロのトップ写真は、彼女に撮ってもらったのだけれど、センスのよさっていうのは、どっかに出る。
そのセンスというのも、共通のなにものかで、ビビッとくるものだったり。

まあ、それはともかく。

この美の基準ってなんなんだろうと。雰囲気だったり、センスのよさだったり。

生活にはぐくまれた美というのも、どこかで一線を超えて、誰から見てもそれなりに納得される域へ達する。

ひとりよがりの美や欲望に振り回されている人は滑稽だ。だが、その域を超えること。

いまだに黄金比を捜し求めている。ほんとは、そんな基準なんてどーでも良くて、自分が良ければそれでよいのだろうけれど。。

じゃんけん必勝法

桜美林の芳沢教授の実験(対象:725人、11567回のデータ)によると、おのおのの手が出る確率は

グーが出る確率:35.0%
パーが出る確率:33.3%
チョキが出る確率:31.7%

で、どうも相手を驚かせると、自らを守ろうとする緊張からグーを出す確率が大きくなるらしい。

また、あいこになったときに同じ手を出す確率は22.8%とかなり少ない。
たとえば、相手がパーを出したあと、相手が出す手はグーかチョキ。とすると、こちらはグーを出したほうがよい。
同じようにチョキを出した場合は、パーを、グーを出した場合は、チョキを出したほうがよい。
つまり、『あいこのときは、相手が出した手に負ける手をだせば勝つ確率が高くなる』

これらをまとめると、
①最初に相手を驚かしてから、パーを出す。
②それでもあいこになった場合は、グーを出す。

おためしあれ ( ´(ェ)`)

ひとっさん

子供のころ、近所にひとっさんというおっさんがいた。

昼間から赤い顔をして酔っ払ってなにをするでもなくぷらぷらしている。

小学生のころは、学校は昼を過ぎれば終わりである。
そんな時間の下校途中やらにそのおっさんに出会うのである。
一斉下校でもないときには一人で帰り道を歩いている。そんなときにそのおっさんが突如前から歩いてくるのである。

何をされるのかわからない。だから、子供のころはその姿を見かけることが恐ろしくもあり、でもなぜが興味をそそられる対象でもあった。

中上健次の「重力の都」。

彼の作品には、そういう得たいのしれない「大人」が出てくる。感情や本能で行動する大人たち。本能というのは、われわれ自らのなかにもあるもので理解可能であると思うのだが、彼の小説の中に出てくる大人たちの本能というのは、まったく理解の範囲を超えている。

「女は裸のまま立ち上がり押入れの中から丹前をぬった折に使ったさいほう箱を取って中を開けて木綿針を出してから紙にくるんだままの丹前に入れた残りの綿を取り出し、針で目を突いて盲いさせてくれと言った」

そんな女や男が絵巻を展開していく。地獄絵巻のようにも思えるが、もっと間の抜けた、笑いをさそう戯画のようにも思える。

大人になって、そんな大人に対する違和感を持つことはなくなったと思っていたのだが、実はそれは自らの世界が小さくなったからで、関わり合いになることを避けることを覚えただけであることに気づく。

中上の描く世界というのは厳然として存在するのだが、普段われわれは意識しない。
あるいは意識することを避けているだけで、酒を飲んだときとか、あるいは仕事でも殺気立った場所だったりで、そういう世界への入り口はぽっかりあいていたりする。

インドのおもしろいところは、日常自身がそういう場所であるというところで、普段の生活でただ単に道を歩いているだけでも、そういう光景が目に飛び込んでくるし、そういう世界へいやおうなく放り込まれるところだったりする。

子供のころの、大人に対する恐怖や不条理な世界への恐れをもう一度体験する。
中上の小説はそういう小説だったり、インドというはそういう国だったりする。

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